宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波STORY #059

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井波彫刻 井波彫刻 井波彫刻
井波八幡宮の春季例大祭 井波八幡宮の春季例大祭 井波八幡宮の春季例大祭
山門下から見る瑞泉寺 山門下から見る瑞泉寺 山門下から見る瑞泉寺
瑞泉寺山門の「雲水一匹龍」 瑞泉寺山門の「雲水一匹龍」 瑞泉寺山門の「雲水一匹龍」
八日町通りと瑞泉寺 八日町通りと瑞泉寺 八日町通りと瑞泉寺
木彫刻体験 木彫刻体験 木彫刻体験

ストーリーSTORY

瑞泉寺の再建に端を発し、
宮大工の鑿一丁から生まれた華麗にして豪壮な井波彫刻と、
その木彫刻職人たちが造りあげたまち井波。
彫刻工房と町家が軒を連ねる石畳の通りには、
木槌の音が響き、木々の薫りが漂う。
通りには至るところに七福神や十二支などの木彫刻が飾られ、
まちはさながらに木彫刻の美術館である。
春には井波彫刻で飾られた曳山や屋台、獅子舞がまちを練り歩き、
地域の安泰や五穀豊穣を祈る。
地域の暮らしに根づく井波彫刻は、その高い技術力や芸術性を広く全国から認められ、
今や日本の木彫刻文化の護り手となっている。

木槌の音が響き、木々の薫りが漂うまち

瑞泉寺の門前の緩やかな上り坂、石畳の八日町通りには工房や町家が軒をならべ、どの家にも鳳凰や龍、七福神、動植物など様々なデザインの木彫看板や表札が掲げられている。通りのそこかしこから、「とんとん」「かんかん」「シュッシュッ」と時に力強く、時にリズミカルに木を叩き削る木槌の音が響き、辺りには楠や欅、檜など木々の薫りが漂う。ここは木彫刻のまち・井波である。

ひと際目を引く精緻な造りの看板が掲げられている木彫刻職人の工房は、ショーウインドウのように通りから中を窺うことができ、板張りの作業部屋の手前に弟子達、その奥で親方が自らの技を誇るよう鑿を振るう。一枚の大きな分厚い板に墨で下絵を描き、200~300種類の彫刻刀を使い分け、荒落し、荒彫り、小彫り、仕上げ彫りにと取組む。大きな欄間や繊細な仏具などは完成までに数か月から数年を要し、職人はその間一心不乱に木と格闘する。欄間や衝立、獅子頭、天神様など彫り上げられた多くの作品は工房内に大切な商品として陳列され、またそれらは若い職人達の貴重な手本ともなっている。

通りにある多くの町家は木造・中二階建てで、通りに面して格子が覆うなど江戸時代からの佇まいを留めており、全体に落ち着いた外観である。造り酒屋の町家の正面には大きな欅の一枚板の彫刻看板が掲げられ、屋号や商号、酒樽の図柄が彫り込まれている。蕎麦屋を営む町家に入ると、江戸時代の職人の手による彫刻欄間をはじめ、衝立や獅子頭など優れた彫刻作品に目が留まる。その他、通りには来訪者を歓迎する大きな彫刻のモニュメント「花鳥の塔」などと共に、バス停や電話ボックス、ベンチ、街路灯といった井波の人々の暮らしに関わる施設にも木彫刻が施され、伝統的なまちなみと融和している。

一方、通りを北に下る本町通りには、鑿屋、刀屋、建具屋、木地屋、塗師屋などが建ち並び、彫刻職人を支える職人街として、木彫刻のまちの基盤となっている。本町通りの先には、代々瑞泉寺の大工棟梁をつとめた松井角平の手による旧井波駅舎があり、昭和47年の鉄道廃止以前は瑞泉寺への玄関口として多くの参拝客を迎い入れた。この旧井波駅舎から瑞泉寺へと向かう本町通りと八日町通り、そして八日町通りから東西に伸びる六日町通り、三日町通りなどにも、木彫刻の工房が数多く点在し、木彫刻のまち・井波は形づくられている。

左:瑞泉寺へと伸びる八日町通り/中:木彫刻職人の工房/右:造り酒屋の町家と木彫看板 左:瑞泉寺へと伸びる八日町通り/中:木彫刻職人の工房/右:造り酒屋の町家と木彫看板

瑞泉寺の再建と井波彫刻の誕生

瑞泉寺は現存する北陸最大の木造建築物で、その伽藍は木造寺院としては全国屈指の規模を誇っているが、瑞泉寺と門前のまちは幾度となく井波風と呼ばれる強風が原因で大火となり焼失している。そのため防火対策として、寺の正面には大楼壁と呼ばれる高さ約6.2mもある石垣が築かれ、さらには参道である八日町通りの正面からあえて山門や本堂を少しずらして配置するなど、風の通りを抑える工夫もされており、これらは宝暦12年(1762)の大火後の瑞泉寺再建にあわせてなされたものである。そして、井波彫刻もこの時の瑞泉寺再建をきっかけに産声をあげる。

瑞泉寺再建の際、寺を飾る木彫刻を担うため、京都から派遣された東本願寺の御用彫刻師・前川三四郎に、井波の宮大工四人が弟子となり木彫刻に従事した。井波の宮大工たちは、京の芸術性の高い匠の技を吸収し、脈々と技を磨き受け継ぎながら、華麗で繊細、豪壮で大胆な井波彫刻を生み育てていったのである。

瑞泉寺山門の「雲水一疋龍」は井波彫刻の祖となった前川の作品で、明治12年(1879)の大火の折、木彫りの龍が山門から抜け出し、近くの井戸の水を吸い上げ山門や勅使門に掛け、類焼を免れたと伝えられる。勅使門に彫られている「獅子の子落とし」は、親獅子が千尋の谷に子を落とし、断崖から這い上がろうとする子を岩陰から厳しく、そして慈愛の眼で見守る姿を見事に彫り上げており、日本の木彫刻史上に残る傑作中の傑作と言われる。本堂の東側に建つ大きな太子堂は、大正時代に造られたお堂で各所に職人の技の真髄が見られる。正面階段上の屋根を支える柱の上部内側に彫られた手挟み彫刻は、空間を生み出す奥行きのある彫りで、龍や幾重にも重なって見える波が立体的に表現されている。また、堂内の幾つもの欄間は、表裏に別々の絵柄を透かし彫りで仕上げられ、両側から見上げると、何層にも彫り込まれた深彫りの奥行きが見てとれる。瑞泉寺にあって太子堂は、彫刻装飾の粋を集めた井波彫刻の殿堂とも言われる。仏具においても井波彫刻は優れた作品を生み出しており、なかでも井波彫刻総合会館にある「三卓の仏具」と呼ばれる作品は、三つの経机を巧みに組み合わせたもので、その極めて繊細な手わざは見る人を唸らせる。

瑞泉寺の再建に端を発した木彫刻の技は芸術の粋まで昇華し、さながら井波の町は全体が木彫刻の美術館となった。すべては宮大工の鑿一丁から生まれたのである。

左上:瑞泉寺の防火・防風壁「大楼壁」/右上:山門に残る「雲水一疋龍」/左下:勅使門に残る「獅子の子落とし」/右下:太子堂の手挟み彫刻 左上:瑞泉寺の防火・防風壁「大楼壁」/右上:山門に残る「雲水一疋龍」/左下:勅使門に残る「獅子の子落とし」/右下:太子堂の手挟み彫刻

暮らしに根づく井波彫刻と職人の食

瑞泉寺の背後の八乙女山を越えると、その先は五箇山の合掌造り集落に繋がる。この集落にも井波彫刻は人々の暮らしとともにある。家々には欄間が入り天神様や獅子頭が置かれ、五箇山の寺や神社の仕切り壁や手挟みには素朴で力強い井波彫刻が彫り込まれている。また、この地で代々伝えられて来た獅子舞は、春に豊年を願い、秋には収穫への感謝を表すもので、井波彫刻の獅子頭で勇壮に舞い踊る。

井波の南西に位置する城端地域の曳山祭は、京の華麗なる祭りの流れを汲むもので豪華絢爛たる曳山の飾りは、その多くが井波の木彫刻職人の手による。また、福光地域の神輿、福野地域の曳山や庵屋台にも井波彫刻が施され、これらの地域の豊年と繁栄を祈る祭りや催しなど、人々の暮らしにも井波彫刻は根づいている。

また、かつて木彫刻職人の修行時代を支えた食事には、地元の野菜で作られた「いとこ煮」や「よごし」と呼ばれる料理があり、ハレ(特別)の日には「どじょうの蒲焼」や「かぶら寿司」が食された。これらの食は、今は井波とその周辺地域の名物料理、家庭料理となり振る舞われている。

左:五箇山合掌造り集落の獅子舞/右:城端曳山祭の曳山 左:五箇山合掌造り集落の獅子舞/右:城端曳山祭の曳山

継承される伝統の技と拡がる井波彫刻

鑿を振るう彫刻職人 鑿を振るう彫刻職人

職人の彫り物は時代とともに変化してきた。瑞泉寺の寺社彫刻を起源とする井波彫刻は、明治以降、住宅欄間や獅子頭、置物、衝立などを手がけ、近年ではドアの装飾や照明器具といったインテリア、日用品や嗜好品などを手がけるなど、時代が求めるニーズに合わせ柔軟に対応し創作してきた。
木彫刻のみで250年余も生き抜けたのはそれ故であり、井波のまちを見事な木彫刻の作品で埋め尽くすとともに、今も新しい木彫刻作品を創造し続けている。現在、井波には木彫刻職人は250人を数え、200 軒もの工房が高い技術で競い合う。井波には、木彫刻職人を目指す多くの若者が全国から集まり、修行し腕を磨き、一人前の職人となり井波でそして全国でその腕を振るう。受け継がれてきた高度な木彫刻の技は、日本各地の曳山や屋台、寺社仏閣や城郭などの彫刻に使われ、日本の伝統や文化を支えている。今や井波彫刻とその職人たちは、井波を木彫芸術のまちに造り上げただけでなく、日本の木彫刻文化を支える護り手となった。

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