葡萄畑が織りなす風景−山梨県峡東地域−STORY #060

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原茂ワイン 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域− 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域−
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大善寺の薬師如来像 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域− 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域−
葡萄畑 夏 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域− 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域−
葡萄畑 秋 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域− 葡萄畑が織りなす風景 −山梨県峡東地域−

ストーリーSTORY

甲府盆地の東部は平坦地から傾斜地まで葡萄畑が広がり、
初夏には深碧の絨緞、秋には紅葉の濃淡が日に映え、
季節ごとに様々な風景を魅せてくれます。
奈良時代から始まったと伝えられる葡萄栽培は、
先人たちの知恵と工夫により、かつて水田や桑畑だった土地を一面の葡萄畑に変え、
またその葡萄畑に育まれたワインは
日常のお酒として地域に根付きました。
今も歴史を語る技術や建物は受け継がれ、
葡萄畑の風景の中に溶け込んでいます。

先人の知恵と工夫による葡萄畑の形成

甲府盆地東部の勝沼地区は、葡萄栽培が古くから行われ、葡萄にまつわる伝承の地となっています。奈良時代の名僧行基の夢に、葡萄を手にした薬師如来が現れ、その姿を刻んだのが大善寺(ぶどう寺)の薬師如来像であり、この地に葡萄栽培を伝え、これが甲州ワインの原料となる甲州葡萄であると言われています。

江戸時代になると、葡萄は後に甲州式と呼ばれる竹を使った棚で栽培されるようになりました。元々葡萄は乾燥を好む果物であるため、棚による栽培は通風が良く生育に適し、日本における葡萄栽培の原型となりました。

その後、竹に代わり自由に加工できる丈夫な針金が明治中期に導入されたことで、どのような地形にも棚が作れるようになり、屋根状に広がる葉の間から色づく葡萄の房が、シャンデリアのようにぶら下がる光景が傾斜地にまで広がるようになりました。またこの地区では、東西に流れる日川が度々氾濫し、家や田畑が流されるため、明治末期以降、土砂流出を防ぐための石積みの治水施設や上流に土砂止めの堰堤などの施設が作られました。

その結果、川の氾濫が抑えられ、日川沿いの田畑は水はけの良い砂地に変わり、葡萄畑への転換が進みました。現在でも、日川沿いの葡萄畑の中には、役目を終えた治水施設が幾筋もの石畳となって残っています。

左:大善寺薬師如来像/右:日川沿いの治水施設、上は甲州式棚栽培の葡萄 左:大善寺薬師如来像/右:日川沿いの治水施設、上は甲州式棚栽培の葡萄

時代の変化とともに拡大した葡萄畑

明治期の峡東地域(甲府盆地東部)では、「甲州切妻型」と呼ばれる光を取り入れるために棟の中央を持ち上げた「突上げ屋根」を設けた家屋で、養蚕が盛んに行われていました。

しかし、昭和30年代中頃から化学繊維の普及などにより養蚕業が衰退し始めると、養蚕農家は収益性の高い葡萄などの果樹栽培へと転換し、限られた耕作地で収穫量を増やすために、家屋の軒先まで葡萄棚を張り巡らせました。こうして葡萄畑は地域の隅々まで拡大していき、農家だけでなく、大善寺や清白寺などの寺社仏閣も葡萄畑の海に浮かぶような、他では観られない風景が形成されていきました。

また、勝沼地区には、収穫した葡萄を一時保存する半地下の貯蔵庫の遺構があります。これにより、出荷量の調整が可能となり、市場への安定供給と価格の安定が図られ、葡萄の生産拡大に繋がっていきました。この貯蔵庫は、電気冷蔵庫が普及する昭和30年代まで使われました。

昭和33年に国道20号新笹子トンネルが開通したことにより流通環境が飛躍的に改善し、京浜市場と直結されたことから、葡萄栽培は一層盛んになりました。またモータリゼーションの進展とともに、首都圏からの観光客が急増したため、主要な道路沿いには観光ぶどう園が増加し、今でも収穫の時期には、葡萄狩りを楽しむ観光客で大いに賑わいます。

左:軒先まで張り巡らせた葡萄棚/右:甲州切妻型家屋 左:軒先まで張り巡らせた葡萄棚/右:甲州切妻型家屋

葡萄畑から始まるワイン文化

明治時代になり、ワインづくりが政府の殖産興業政策の一環になると、葡萄栽培が盛んな山梨県では明治9年に甲府城跡に県営の勧業試験場が開設され、全国に先駆けて葡萄酒醸造所が開かれました。

また明治初期、勝沼にあった日本初の民営のワイン醸造会社が二人の青年をフランスへ派遣し、本格的なワイン醸造に取り組みました。そして、試行錯誤を繰り返しながら、ワインの醸造と普及に情熱を注ぎ続けた人々によって、この地域では「葡萄酒」文化が形成され、定着していきます。

明治中期には、勝沼の生産農家が葡萄価格の安定に取り組もうと組合を組織し、ワイン醸造に乗り出した際、組合員の間で冠婚葬祭はもちろん日常もワインを飲用する葡萄酒愛飲運動が始まり、ワインは農家にとって生活に密着し、身近な飲み物となっていきました。山梨県ゆかりの作家太宰治が甲府に逗留した際のことを書いた小説『新樹の言葉』では「押入れから甲州産の白葡萄酒の一升瓶を取り出し、茶呑茶碗で、がぶがぶのんで、醉つて來たので蒲團ひいて寝てしまつた。」とあり、地域にワインが浸透し、飾らない楽しみ方で飲まれる様子がよく描かれています。

このように、農家が中心となって始めた葡萄酒を造り楽しむ習慣は、やがて組織化され、本格的なワイン醸造につながり、現在、峡東地域は60を超える日本一のワイナリー集積地に発展しました。西欧の古城風の建物から養蚕農家を改築した家屋まで、ワイナリーの形態は様々であるように、同じ地域の甲州葡萄で造った甲州ワインであっても、風味や香りはワイナリーごとに異なっています。

この地域のワイン文化は神事にまで及び、笛吹市の一宮浅間神社では祭神の木花開耶姫命が酒造の神であることから、昭和40年頃からワインが奉納されており、県内ワイナリーの約半数に当たる40社ほどが、農作業が始まる3月半ばに一升瓶ワインを奉納し、参拝者へワインの御神酒が振る舞われます。また今では葡萄の豊作と良質なワイン醸造を祈願してコルク栓を供養する地域のお祭りも併せて行われています。

このように、葡萄とワインとの地域の関わりは多岐にわたり、特に長い栽培の歴史を持ち、美しい葡萄畑の景観の中心をなす甲州葡萄から造られる甲州ワインは、鉄分が少なく魚料理の生臭さを増幅しないため、近年の世界的な和食ブームを背景に、寿司や刺身など生魚の味わいを楽しむ和食との相性が良いワインとして、欧米などで評価が高まっています。

左:明治期のワイン地下発酵槽/右:ワインの御神酒 左:明治期のワイン地下発酵槽/右:ワインの御神酒

歴史とともにある葡萄畑とワインの愉しみ

葡萄畑が広がる峡東地域の風景は、100年を超える年月を掛けて作り上げられてきたものです。地域を訪れる人々が四季折々の景観、街並みに触れて心を躍らせるのは、この地域が積み重ねてきた葡萄栽培の歴史や、先人達の努力、互いに切磋琢磨し、高品質なワイン醸造に挑戦し続けるワイナリーの姿など、地域の特性が大きく影響しています。

季節の移ろいとともに変化する葡萄畑の風景の中には、今も受け継がれる技術や建物、日常生活の中に溶け込んだワインがあり、それらに触れることで山梨県峡東地域の魅力を誰もが感じることができます。

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