400年の歴史の扉を開ける旅〜石から読み解く中世・近世のまちづくり 越前・福井〜STORY #071
ストーリーSTORY
越前・福井では、中世期に地方に生まれ、大量の石を用いて計画的につくられた都市が今も独特の空間を醸し出しています。
また、近世期の城下町では、風景に溶け込んだ美しい青色の石が天候によって街並みの色合いを変化させ、
自然の力が大地を階段状につくり上げた街の中心部には石の壁が続きます。
様々な形に姿を変えて時代を越えてきた石が私たちを出迎える越前・福井は、
日本人と石との共生の歴史や屈指の石づくり文化を体感させてくれる地です。
また、近世期の城下町では、風景に溶け込んだ美しい青色の石が天候によって街並みの色合いを変化させ、
自然の力が大地を階段状につくり上げた街の中心部には石の壁が続きます。
様々な形に姿を変えて時代を越えてきた石が私たちを出迎える越前・福井は、
日本人と石との共生の歴史や屈指の石づくり文化を体感させてくれる地です。
太古の昔より、人々は石とともに歴史を歩んできました。山から切り出され、目の前に立ちはだかる巨石の壁、整然と敷き詰められた自然石の苔むした石畳、屋敷を支える無数の礎石や石垣。まちづくりに使われた石は、当時のまちの姿、武士や庶民の暮らし、人々の切なる思いなど、今を生きる私たちに語りかけます。
(石づくりの戦国城下町と中世宗教都市)
室町幕府の権威低下や商業、文化の発達に伴い、地方にも新たな都市が誕生した中世・戦国期。古代より京都から北陸道諸国を結ぶ交通の要所であった越前・福井に生まれた二つの大きな都市は今も独特の空間を醸し出しています。そこに静かに佇む石と向き合うと、栄華を極めた往時の姿が目の前によみがえります。
福井市街地から美濃街道を足羽川沿いに進み、南側へと支流が分岐した福井市の南東部。三方を山に囲まれ、川が流れる狭い谷間の平野に伝統的民家が建ち並ぶこの地区は、戦国大名の朝倉氏が街道や水運を巧みに利用してつくり上げ、越前国支配の拠点となった「一乗谷」です。一乗城山の麓に位置し、自然の要害としての地形を活かしたこの地は、当時、政治・文化都市として繁栄し、武家屋敷や町屋、寺院などが密集・混在した空間に約1万人が暮らしたとされます。一乗谷を訪れると、濠や土塁をはじめ、幹線道路や川の両側に計画的に配置された町並みなどに戦国期特有の城下町の姿を見てとれます。城下町入り口の下城戸の通路の両側には、他国や一向一揆などとの争いに備えて巨石が5メートルもの高さで積み上げられ、今も当時の緊張感を伝えています。また、谷間の傾斜地から一乗谷川へと繋がる川の護岸、船着き場や荷揚げ場の機能を果たした川湊の入江には丁寧な石積みが施され、屋敷の石垣や石製の井戸枠、さらには無数の礎石類などを見ることができます。一乗谷周辺から運ばれ、まちづくりを支えた大量の石は当時の暮らしだけではなく、城下町の賑わいや匂いまでも感じさせます。一乗谷において発展した石積みや石利用の技術は、近世期以降の築城技術につながったと考えられています。
一乗谷から美濃街道をさらに東へ進み、分岐して九頭竜川を越えると、白山連峰の麓に勝山盆地が広がります。かつてこの地は白山信仰の拠点として発展し、戦国期に最盛期を迎えた白山平泉寺が支配しました。当時、白山平泉寺周辺には我が国最大級の宗教都市が形成され、最盛期には48社、36堂、そして6,000もの僧坊があったとされます。中世の巨大寺院は宗教権力として自己を防衛するために城を築きましたが、朝倉氏から自立した支配権を保証された白山平泉寺も多くの僧兵を有し、一向一揆などと戦う朝倉氏に強大な軍事力で味方しました。山の谷間に約1キロメートルも連なる樹齢300年を超える杉木立の菩提林の参道の石畳は、九頭竜川や女神(おながみ)川(がわ)の川原石を手渡しで運んでつくられたと伝えられています。一面が苔に覆われた、神秘的で幻想的な境内の礎石からは、当時、正面が80メートルにも及ぶ大拝殿があったことがわかります。山から切り出した石で築いたとされる本社の巨石の石垣は高さ3メートル、長さ110メートル以上にもわたり、巨大な壁となって人々を圧倒します。坊院跡には国内最大規模の石畳道が縦横に張り巡らされ、石組みの側溝が残るなど、計画的に町並みが整備されていたことに驚かされます。周辺の集落には、坊院跡の石垣を現在も当時のままの状態で利用している屋敷もあります。荘厳にして静寂な神域へと私たちを誘う白山平泉寺一帯に広がる石は、かつて巨大な宗教都市が確かに存在したことを思い起こさせます。戦国期、武家はこのように中世寺院が有していた石積みや石を割る技術をまちづくりなどに導入したと考えられ、一乗谷のまちづくりも、阿(あ)波賀(ばか)街道を通じて、白山平泉寺から非常に強い影響を受けたとされています。
福井市街地から美濃街道を足羽川沿いに進み、南側へと支流が分岐した福井市の南東部。三方を山に囲まれ、川が流れる狭い谷間の平野に伝統的民家が建ち並ぶこの地区は、戦国大名の朝倉氏が街道や水運を巧みに利用してつくり上げ、越前国支配の拠点となった「一乗谷」です。一乗城山の麓に位置し、自然の要害としての地形を活かしたこの地は、当時、政治・文化都市として繁栄し、武家屋敷や町屋、寺院などが密集・混在した空間に約1万人が暮らしたとされます。一乗谷を訪れると、濠や土塁をはじめ、幹線道路や川の両側に計画的に配置された町並みなどに戦国期特有の城下町の姿を見てとれます。城下町入り口の下城戸の通路の両側には、他国や一向一揆などとの争いに備えて巨石が5メートルもの高さで積み上げられ、今も当時の緊張感を伝えています。また、谷間の傾斜地から一乗谷川へと繋がる川の護岸、船着き場や荷揚げ場の機能を果たした川湊の入江には丁寧な石積みが施され、屋敷の石垣や石製の井戸枠、さらには無数の礎石類などを見ることができます。一乗谷周辺から運ばれ、まちづくりを支えた大量の石は当時の暮らしだけではなく、城下町の賑わいや匂いまでも感じさせます。一乗谷において発展した石積みや石利用の技術は、近世期以降の築城技術につながったと考えられています。
一乗谷から美濃街道をさらに東へ進み、分岐して九頭竜川を越えると、白山連峰の麓に勝山盆地が広がります。かつてこの地は白山信仰の拠点として発展し、戦国期に最盛期を迎えた白山平泉寺が支配しました。当時、白山平泉寺周辺には我が国最大級の宗教都市が形成され、最盛期には48社、36堂、そして6,000もの僧坊があったとされます。中世の巨大寺院は宗教権力として自己を防衛するために城を築きましたが、朝倉氏から自立した支配権を保証された白山平泉寺も多くの僧兵を有し、一向一揆などと戦う朝倉氏に強大な軍事力で味方しました。山の谷間に約1キロメートルも連なる樹齢300年を超える杉木立の菩提林の参道の石畳は、九頭竜川や女神(おながみ)川(がわ)の川原石を手渡しで運んでつくられたと伝えられています。一面が苔に覆われた、神秘的で幻想的な境内の礎石からは、当時、正面が80メートルにも及ぶ大拝殿があったことがわかります。山から切り出した石で築いたとされる本社の巨石の石垣は高さ3メートル、長さ110メートル以上にもわたり、巨大な壁となって人々を圧倒します。坊院跡には国内最大規模の石畳道が縦横に張り巡らされ、石組みの側溝が残るなど、計画的に町並みが整備されていたことに驚かされます。周辺の集落には、坊院跡の石垣を現在も当時のままの状態で利用している屋敷もあります。荘厳にして静寂な神域へと私たちを誘う白山平泉寺一帯に広がる石は、かつて巨大な宗教都市が確かに存在したことを思い起こさせます。戦国期、武家はこのように中世寺院が有していた石積みや石を割る技術をまちづくりなどに導入したと考えられ、一乗谷のまちづくりも、阿(あ)波賀(ばか)街道を通じて、白山平泉寺から非常に強い影響を受けたとされています。
左上:一乗谷の復元町並/右上:一乗谷の下城戸/左下:平泉寺白山神社の参道/右下:平泉寺白山神社の大石垣
(近世城下町のまちづくりと石)
朝倉氏の時代に築かれた石積みなどの技術は近世以降ますます磨かれ、生産力も飛躍的に向上しました。
福井城下のまちづくりには、足羽山から採掘された美しい青色の「笏(しゃく)谷(だに)石(いし)」が大量に用いられました。約1,500年前に継体天皇が見つけたとの伝説が伝わる、水に濡れると鮮やかな青緑色に変化する、とても不思議な石です。一乗谷から商人、職人が移住し、新しい越前国の城下町づくりの拠点となった北ノ庄の城主 柴田勝家が北陸道と足羽川が交わる地に架けさせたとされる「九十九(つくも)橋(ばし)」は半分が木、半分が笏谷石でつくられていました
橋脚部分の笏谷石は今も北ノ庄城址や福井市立郷土歴史博物館などに残り、福井の歴史の証人となっています。北ノ庄城から受け継がれ、福井市の都市建設の中心となった福井城址の石垣は約40,000個とも言われる、小さく切り出された笏谷石のみで築かれており、全国の城の中で最も美しいとされています。このほか、屋敷一帯が笏谷石採掘地跡地に静かに佇み、幕末の志士たちが密会を開いた庵として知られる「丹(たん)巌(がん)洞(どう)」や、1,360枚もの笏谷石が敷き詰められ、巨大な墓石から柵、門扉にいたるまで笏谷石が使われている松平家の廟所「大安寺千(だいあんじせん)畳敷(じょうじき)」では、笏谷石がつくり出す世界そのものを体感することができます。近世期以降、北前船で日本海側沿岸の各地に運ばれた笏谷石は全国の優れた石づくり文化を支えてきましたが、笏谷石のふるさと福井では笏谷石が風景に溶け込み、晴れの日には美しい青色が宝石のように輝きを放ち、雨の日には街中が淡い青緑色のベールに包まれるようです。神社の鳥居や石段、家屋の敷石や門柱、さらには公園のモニュメントなど、笏谷石は今も福井の人々の身近な暮らしの中で見ることができます。
一方、勝山市では、中心市街地をほぼ南北方向に高さ5~7メートルの石の壁が断続的に続いています。これは九頭竜川の浸食と堆積、土地の隆起の繰り返しという自然の力によってつくられた河岸段丘をまちづくりに活用したもので、長さが20キロメートル余りもあることから「七里壁(しちりかべ)」と呼ばれています。江戸時代にはこの壁を境に、石垣の上の段丘面に武家屋敷が、石垣の下の低い段丘面には町家・寺院が配置され、南北の道路で整然と区割りされた城下町が形成されていました。街を東西に横切る小路は「おたね坂」や「小姥坂(こうばざか)」などのように逸話から名付けられた坂道となっており、段丘の最も低い面からは伏流水となった清水が今も湧き出しています。福井平野を潤す九頭竜川の中流域沿岸に形成されたこの地では、大地が奏でる時の流れの音を感じながら、風情のある城下町の面影を偲ぶことができるのです。
福井城下のまちづくりには、足羽山から採掘された美しい青色の「笏(しゃく)谷(だに)石(いし)」が大量に用いられました。約1,500年前に継体天皇が見つけたとの伝説が伝わる、水に濡れると鮮やかな青緑色に変化する、とても不思議な石です。一乗谷から商人、職人が移住し、新しい越前国の城下町づくりの拠点となった北ノ庄の城主 柴田勝家が北陸道と足羽川が交わる地に架けさせたとされる「九十九(つくも)橋(ばし)」は半分が木、半分が笏谷石でつくられていました
橋脚部分の笏谷石は今も北ノ庄城址や福井市立郷土歴史博物館などに残り、福井の歴史の証人となっています。北ノ庄城から受け継がれ、福井市の都市建設の中心となった福井城址の石垣は約40,000個とも言われる、小さく切り出された笏谷石のみで築かれており、全国の城の中で最も美しいとされています。このほか、屋敷一帯が笏谷石採掘地跡地に静かに佇み、幕末の志士たちが密会を開いた庵として知られる「丹(たん)巌(がん)洞(どう)」や、1,360枚もの笏谷石が敷き詰められ、巨大な墓石から柵、門扉にいたるまで笏谷石が使われている松平家の廟所「大安寺千(だいあんじせん)畳敷(じょうじき)」では、笏谷石がつくり出す世界そのものを体感することができます。近世期以降、北前船で日本海側沿岸の各地に運ばれた笏谷石は全国の優れた石づくり文化を支えてきましたが、笏谷石のふるさと福井では笏谷石が風景に溶け込み、晴れの日には美しい青色が宝石のように輝きを放ち、雨の日には街中が淡い青緑色のベールに包まれるようです。神社の鳥居や石段、家屋の敷石や門柱、さらには公園のモニュメントなど、笏谷石は今も福井の人々の身近な暮らしの中で見ることができます。
一方、勝山市では、中心市街地をほぼ南北方向に高さ5~7メートルの石の壁が断続的に続いています。これは九頭竜川の浸食と堆積、土地の隆起の繰り返しという自然の力によってつくられた河岸段丘をまちづくりに活用したもので、長さが20キロメートル余りもあることから「七里壁(しちりかべ)」と呼ばれています。江戸時代にはこの壁を境に、石垣の上の段丘面に武家屋敷が、石垣の下の低い段丘面には町家・寺院が配置され、南北の道路で整然と区割りされた城下町が形成されていました。街を東西に横切る小路は「おたね坂」や「小姥坂(こうばざか)」などのように逸話から名付けられた坂道となっており、段丘の最も低い面からは伏流水となった清水が今も湧き出しています。福井平野を潤す九頭竜川の中流域沿岸に形成されたこの地では、大地が奏でる時の流れの音を感じながら、風情のある城下町の面影を偲ぶことができるのです。
(石に現れた日本人の美と信仰)
石はまちづくりに用いられただけではなく、日本人の自然観や精神文化を象徴する独自の芸術作品を生み出しました。
福井では、華やかな戦国文化の隆盛を物語る、多様な戦国期様式の庭園群が往時そのままの姿で出迎えます。池泉回遊式庭園の4メートルを超える滝副の巨石は中世都市の栄華を象徴するようであり、荒々しく石が組まれた勇壮な庭園は戦国武士の真の気迫を漂わせます。客人をもてなすためにつくられた平庭の美しい流れ模様の海石は見る者すべてを非日常の世界へと導き、枯山水の庭園では石と苔と古木が幽玄な世界をつくり出しています。今も豊かな自然景観と重なり合う、これらの庭園群を見れば、戦国期の日本人の美意識の神髄に触れることができます。
近世期、松平家の別邸であった「養(よう)浩館(こうかん)庭園(ていえん)」では、東尋坊で知られる越前海岸の柱状節理の岩柱などが印象的に用いられているほか、福井県内の名石を見ることができます。数寄屋造りの建物と調和した、水の景と石の景がつくり出す空間からは、日本人独自の奥深く、豊かな侘び・寂びの世界を感じ取ることができます。
一乗谷周辺には戦国期の石仏や石塔などが全国でも例がないほど数多く残っています。繊細で優美な石仏の表情からは、戦国期の人々の祈りや鎮魂への思いが今も伝わってきます。このほか、福井の神社では美しい造形の狛犬を数多く見ることができますが、彫りが見事であるだけではなく、髪型や尾の形などにそれぞれ特徴があり、とても個性的です。
福井では、華やかな戦国文化の隆盛を物語る、多様な戦国期様式の庭園群が往時そのままの姿で出迎えます。池泉回遊式庭園の4メートルを超える滝副の巨石は中世都市の栄華を象徴するようであり、荒々しく石が組まれた勇壮な庭園は戦国武士の真の気迫を漂わせます。客人をもてなすためにつくられた平庭の美しい流れ模様の海石は見る者すべてを非日常の世界へと導き、枯山水の庭園では石と苔と古木が幽玄な世界をつくり出しています。今も豊かな自然景観と重なり合う、これらの庭園群を見れば、戦国期の日本人の美意識の神髄に触れることができます。
近世期、松平家の別邸であった「養(よう)浩館(こうかん)庭園(ていえん)」では、東尋坊で知られる越前海岸の柱状節理の岩柱などが印象的に用いられているほか、福井県内の名石を見ることができます。数寄屋造りの建物と調和した、水の景と石の景がつくり出す空間からは、日本人独自の奥深く、豊かな侘び・寂びの世界を感じ取ることができます。
一乗谷周辺には戦国期の石仏や石塔などが全国でも例がないほど数多く残っています。繊細で優美な石仏の表情からは、戦国期の人々の祈りや鎮魂への思いが今も伝わってきます。このほか、福井の神社では美しい造形の狛犬を数多く見ることができますが、彫りが見事であるだけではなく、髪型や尾の形などにそれぞれ特徴があり、とても個性的です。
福井を訪れると、石が季節と織りなす美しい光景に毎年出会うことができます。春、残雪輝く奥越前の山並みを背に咲き乱れる九頭竜川の弁天桜。夏、杉木立に差し込む光に優しく包まれた平泉寺白山神社の苔の絨毯。秋、澄み切った朝の日差しを受けて水面に浮かぶ一乗谷の池泉庭園の散紅葉。冬、水墨画のような雪景色の中、新しい春を待ち焦がれる養浩館庭園の梅の蕾。
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