藍のふるさと 阿波〜日本中を染め上げた至高の青を訪ねて〜STORY #081

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藍のふるさと 阿波 〜日本中を染め上げた至高の青を訪ねて〜 藍のふるさと 阿波 〜日本中を染め上げた至高の青を訪ねて〜
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みどころspot

  • 田中家住宅

    田中家住宅

    田中家は江戸時代初頭の寛永頃(1624~1643)に初代播磨屋与(よ)右(え)衛門(もん)が阿波に入植して以来、代々藍染料を製造・販売していた藍師・藍商の家です。
     田中家住宅は、江戸時代末期の安政元年(1854)から明治20年(1887)にかけて約30年の歳月を費やして完成しました。藍師・藍商の住居は「藍屋敷」と呼ばれます。南北約50m、東西約40mの敷地に県内産の青石(緑色片岩(りょくしょくへんがん))・撫養(むや)石(いし)(砂岩)を高く積み上げ、中央に建てられた主屋の周りを寝床や蔵が取り囲む「城構え」ともいわれる藍屋敷独特の特徴をもっています。表門を入ると藍製造には欠かすことのできない広い庭があり、広い下家(したや)「オブタ」を備えた寝床が建つ景観は藍の製造工場といってもよいでしょう。また、北西に向かって高くしつらえた石垣や浮島にもなる茅葺き屋根、オブタにつるされた舟など、洪水対策も備えた、まさに藍どころである土地柄に最適化された見事な藍屋敷です。国重要文化財(昭和51年2月3日指定)

    徳島県石井町藍畑高畑705
    088-674-0707
    https://www.town.ishii.lg.jp/docs/2018100400093/

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  • 奥村家住宅

    奥村家住宅

    奧村家は、「ヤマカ(∧の下に加)」または「藍屋」の屋号をもって文化年間(1804~1818)から藍商として発展します。大坂市場に藍玉を売り込んだほか、幕末には筑前売 の株を取得、さらに明治6年(1873)には東京の深川に支店を設けるなど、販路を拡大していきました。
     「藍屋敷」と呼ばれる藍師・藍商の豪壮な屋敷の代表例である奥村家住宅は、奧村家が藍商として経営を軌道に乗せた文化年間(1804~1818)から明治20年(1887)頃にかけて建てられました。主屋は広い敷地の北寄りに南面して建ち、これを囲むように南と東西に藍染料の加工場である寝床や贅を尽くした西座敷、県下でも例の少ない奉公人部屋など13棟が立っています。主屋は、間口19.8m、奥行9.9mの入母屋本瓦葺2階建てで、棟札(むなふだ) から文化5年(1808)に建てられ、文政10年(1827)に2階を継ぎ足す増築がされたことが分かっています。3棟ある藍寝床は藍屋敷特有の建物で、藍の寝せ込みの作業のためにさまざまな工夫が凝らされています。
     建物群がほぼ完全に保存された藍屋敷は数少なく、奥村家住宅は藍作りの文化を伝えるためにも貴重な資料です。徳島県有形文化財[建造物](昭和62年指定)

    徳島県藍住町徳命前須西172
    088-692-6317
    https://www.town.aizumi.lg.jp/ainoyakata/

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  • 勝瑞城館跡及び守護町勝瑞遺跡

    勝瑞城館跡及び守護町勝瑞遺跡

    藍住町勝瑞は、室町時代には阿波(あわ)守護(しゅご)細川家や阿波三好家の本拠であり、中世阿波の政治・経済・文化の中心地として栄えました。
    江戸時代に記された軍記物語である『みよしき』には、上方から青屋四郎(あおやしろ)兵衛(べえ)が藍染の阿波移入に成功して米を儲けたことが記されています。しかし、この頃には既に阿波に藍染めの技術があったことが分かっており、ここで伝えられた技術は藍染料である「蒅(すくも)」を作る技術であったとも考えられます。
    また、細川家に仕えていた仁木(にき)義(よし)治(はる)は、蜂須賀(はちすか)氏が阿波に入部した後は紺屋司に任命されるなど、中世阿波の中心地である勝瑞と藍との関わりが深かったことがさまざまな資料からうかがわれます。
    勝瑞では、平成6年度(1994)から発掘調査が継続中で、阿波細川家や三好家が築き上げた阿波の最も輝ける一時代を彷彿とさせる遺構や遺物が発見されており、勝瑞城館跡は、中世阿波の歴史を語る上で貴重な史跡といえます。国史跡(平成13年1月29日指定)

    徳島県藍住町勝瑞東勝地
    088-637-3128
    http://syugomati-syouzui.sakuraweb.com/

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  • 徳島城跡及び徳島城下町跡

    徳島城跡及び徳島城下町跡

    徳島城は天正13年(1585)、阿波国の領主となる蜂須賀(はちすか)家政(いえまさ)によって築かれ、藩政時代を通じて徳島藩の政治拠点でした。徳島城下町は阿波藍経済に支えられて発展し、明治22年(1889)の市制施行時の人口は全国第10位でした。
    徳島藩により保護・奨励された藍は徳島城下に集積され、城下町船場が藍商人の活動拠点となります。徳島城下の水上輸送の大動脈として機能した新町川沿いの船場には、かつて藍問屋、藍蔵や肥料蔵が建ち並び、藍大市が開かれるなど藍の取引で賑わうビジネス街でした。現在の船場には、阿波藍商人の巨頭である久次米家が設立した久次米銀行を前身とする阿波銀行本館が、新町川を行き交う帆船をイメージしたモダニズム建築として往時を偲ばせています。また、海上販路の安全祈願のため、勢見の金刀比羅社には藍玉大坂積商人が大坂住吉大社の石燈籠を兄弟燈とする大燈籠が寄進され、藍商たちの豪快さを静かに残しています。徳島城跡は国史跡(平成18年1月26日指定)

    徳島県徳島市徳島町城内
    088-656-2525
    http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/

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  • 藍染庵と犬伏久助像

    藍染庵と犬伏久助像

    板野町松谷の藍染庵には、阿波藍発展の立役者である犬伏久助の木像が安置されています。犬伏久助は、板野町の藍農家に生まれ、藍の栽培・製造を営み、「藍久さん」の愛称で親しまれていました。久助は、それまでの藍染料の製造法がさまざまだったため、その製造法の改良に取り組み、天明元年(1781)に成功しました。それにより品質が高まった阿波の藍染料は、「本藍」と呼ばれ全国にその名声が響き渡ることとなります。久助は、製法を自分一人のものとせず、弟子を養成し、指導して普及につくし、阿波藍の発展に多大な貢献をしました。
    藍染庵は、愛染明王を祭ってあることから、かつて「愛染庵」と呼ばれており、葉藍を明王に供えると上等の藍ができるといって藍関係者が信仰していました。久助の弟子が師の功績を伝えるため木像をここに安置し、いつの頃からか藍の守神として、藍久を祭る「藍染庵」と呼ばれるようになりました。
    藍染料の改良により莫大な利益を挙げた藍商たちは、感謝と報恩のため、各地から藍染庵へ参拝に訪れていました。犬伏久助像は板野町指定有形文化財。(昭和49年2月1日指定)

    徳島県板野郡板野町松谷山ノ内奥1

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