藍のふるさと 阿波〜日本中を染め上げた至高の青を訪ねて〜STORY #081
みどころspot
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川島城址
城跡は標高40mの「城山」と呼ばれる丘陵一帯に展開しています。北麓は吉野川中流域右岸に面し、船着き場に適した湾入地形です。また、南麓は伊予街道に面しており、水陸ともに交通の要衝であったことがわかります。この交通の要衝を支配するため、近接する岩山(古城山)に川島城が築城されたと考えられています。
築城に関する資料は残っていませんが、1573(天正元)年に現在の川島町桒村の植桜一帯で起こったという上桜合戦において功績のあった河島兵衛之進が三好氏から領地を与えられ築城したといわれています。1585(天正13)年に蜂須賀氏が阿波に入国してからは、徳島城の支城である阿波九城の一つとなり、林図書助能勝(道感)が城番となりましたが、幕命の一国一城令によって廃城となりました。城が築かれた山は「古城山」と呼ばれ、現在は本丸、二ノ丸、三ノ丸の痕跡とみられる地形が残っています。また、川島神社参道の大鳥居から現在の国道192号を挟んで南に延びる伊予街道沿いは、郷町として繁栄した町並の名残が垣間見えます。
なお、城跡の東側にある現在「川島城」と呼ばれている鉄筋コンクリート造の建物は、1981(昭和56)年に勤労野外活動センターとして建設されたものです。現在は閉館しています。徳島県吉野川市川島町川島210-1 続きを読む
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岩の鼻展望台
岩の鼻展望台は、川島町川島の「城山」と呼ばれる丘陵に位置しています。城山一体は「川島城址」として、吉野川市の史跡に指定されています。
展望台からは、日本最大の川中島である善入寺島(粟島)や、川島潜水橋を臨むことができます。善入寺島は、1916(大正5)年まで506戸3000人が住んでいました。善入寺島に架かる川島潜水橋は、日本遺産に認定されている「四国遍路」の四国霊場第10番札所切幡寺から第11番札所藤井寺を結ぶ遍路道でもあり、多くのお遍路さんが歩いています。5月には、「最後まで残った空海の道ウォーク(平地コース)」が開催され、約500人の参加者がウォークを楽しんでいます。徳島県吉野川市川島町川島210-1 続きを読む
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吉野川市文化研修センター
吉野川市文化研修センターの指定管理者である特定非営利活動法人吉野川市文化協会は、吉野川市における豊かな芸術文化の伝承・創造と普及発展を図るため、市民講座や文化講演会を始めとし、子ども対象の事業など多彩な企画を推進して、市民の文化的な生活に寄与しております。
市民講座では、藍染教室も行われておりますので、ぜひご参加ください。徳島県吉野川市鴨島町鴨島696-14 0883-22-0015 http://www.yoshi-bunka.jp/ 続きを読む
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鴨島公民館 藍蔵を模した建築物
鴨島公園内に建設された、藍蔵を模した地上5階建て615席の大ホールを擁する公民館である。
建設当時(昭和50年代前半)は、町内には大小多数の藍屋敷が残っており、藍染料を造っていた歴史や文化が語り継がれていたことを裏付ける資料でもある。
また、藍屋敷や藍蔵が次々に失われつつあり、藍で栄えた痕跡を後世に残さなけらばならないという強い危機感や思いが込められ、このデザインが採用されたと考えられる。徳島県吉野川市鴨島町鴨島甲1-1 0883-24-5111 続きを読む
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西麻植会館前 藍商人 石原六郎の頌徳碑
南隣にあった旧西尾村役場跡から移設した、藍師兼藍商人の石原六郎、工藤半平、東京計器(株)創業者である和田嘉衡の功績をたたえる石碑である。
石原六郎は、1873(明治6)年に飯尾に生まれ、家業の阿波藍の製造販売に従事し、販路は関東、関西、九州に及んだ。1903(明治36)年にドイツ人ボッテルと特約し、はじめて人造藍を輸入し、同志とともに大同藍株式会社を設立し、東京、大阪に営業所を設けて全国に販売した。阿波人であって阿波藍に対抗したのである。
1915(大正4)年に郷土史書を集めて飯尾に呉郷文庫を作り、一般に開放したり、呉郷育英社を作って高等学校及び大学の秀才学生の学資を給与したりして英才教育に努めた。徳島県吉野川市鴨島町西麻植字中筋46-1 続きを読む