究極の雪国とおかまち―真説!豪雪地ものがたり―STORY #089

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ストーリーSTORY

世界有数の豪雪地として知られる新潟県十日町市。
ここには豪雪に育まれた「着もの・食べもの・建もの・まつり・美」のものがたりが揃っている。
人々は雪と闘いながらもその恵みを活かして暮らし、雪の中に楽しみさえも見出してこの地に住み継いできた。
ここは真の豪雪地ものがたりを体感できる究極の雪国である。

■究極の雪国

雪国の下校風景 雪国の下校風景

日本の国土のうちおよそ半分は「雪国」である。中でも、日本の中央部に位置する新潟県十日町市は、市街地でも平年の積雪深が2mを超える世界でも有数の豪雪地。「雪国」の中の「雪国」である。

この地に大量の雪が降るようになった縄文時代中期以来、人々は雪と闘いながらもその恵みを活かして暮らし、現在まで住み継いできた。

ここには、豪雪に育まれてきた歴史と文化の「ものがたり」がある。

■豪雪地の着ものがたり

越後アンギン 越後アンギン

日本列島ではカラムシなどの植物繊維を素材とする編布の伝統が縄文時代から続いていたが、中世の法衣を最後に途絶えたといわれ、長らく「幻の布」といわれていた。しかし、全国でも十日町市周辺にのみ「アンギン」等の名で残存し、主に農民の作業衣として近世まで製作・使用されていた。最後の作り手といわれた人からの聞き取りによって奇跡的に製法が復元・伝承され、現在も編み継がれている。

越後縮裂見本帳 越後縮裂見本帳

一方、越後では古代からカラムシの繊維でつくる「青苧(あおそ)」を材料とした上質な麻織物「越後布」が生産されていた。戦国時代、青苧や越後布は上杉氏の度重なる戦の費用を賄う重要な財源となった。江戸時代になって越後布に改良を重ね、より高い付加価値を生み出したのが特産品「越後縮」である。越後縮は将軍家や大奥などでも愛用された。主産地であるこの地域には縮市が開設され、京、大阪、江戸から商人が盛んに出入りし、取引の中心地として大いに栄えた。越後縮は一反を織るのに数ヵ月もかかる。外仕事のできない冬の間、辛抱強さで知られた越後の女性たちの繊細で地道な手仕事によって、美しい文様の夏物の布が織り出された。雪国の冬は湿度が高く、乾燥を嫌う青苧を扱うのに適していた。また、糸や布を漂白するための「雪晒し」の工程は、春の晴天時に雪の残る豪雪地でなくてはできない。越後布・越後縮は、まさに豪雪地の地域性を存分に生かしたブランド品だったのである。

十日町織物歴代標本帳 十日町織物歴代標本帳

江戸時代末期、十日町でも絹織物が生産されはじめ、養蚕も盛んに行われるようになった。明治期になると生産の主流は青苧の麻織物から生糸の絹織物へと劇的に転換する。そして農家の副業から工場制の工業へと生産構造の変革が起こり、現代に続く絹織物産地としての体制が確立した。この革新の原動力となったのは、豪雪によって育まれた人々の苦難に負けない忍耐強さと、時代のニーズを捉えより良いものを生み出そうとする意志の強さであった。それが現代の十日町市のきもの産業の礎である。

■豪雪地の食べものがたり

豪雪地では、雪で大地がふさがれる期間が4月頃まで続く。そのため植物の芽吹きは遅くなり、積雪期は土を耕す農業もできない。この長い冬を凌ぐため、人々は秋までに採れた食料を備蓄し活用することにことのほか心を砕いた。山菜やキノコは塩に漬けたり干したりしておく。大根などの野菜は、ワラで覆い雪の中で保存すると凍らず長持ちした。また、「雪穴」や「雪室」に大量の雪を貯めておき、夏になるまで食料の冷蔵に利用した。

へぎそば へぎそば

十日町市を含む魚沼地域では雪国の風土や地形を生かした稲作が盛んで、全国でも屈指の米どころである。傾斜地に展開する「棚田」の維持は豪雪によるところが大きい。また「へぎそば」は、織物の糸の糊付けに使う海藻「布海苔」をつなぎとして加える。このことによりツルツルとした独特の食感と抜群の風味が生まれ、当地の名物となっている。

豪雪地の食文化 豪雪地の食文化

冬の代表的な保存食「ツケナ」(野沢菜漬)は、春先に発酵が進んで酸味が増すと、塩抜きして煮込み「ニーナ(煮菜)」に生まれ変わる。厳しい冬を生き抜くため、人々の知恵が育んだ豪雪地の食文化は、豊かな自然の恵みを活かした郷土料理として今も受け継がれている。

■豪雪地の建ものがたり

旧室岡家住宅 旧室岡家住宅

雪国の冬、人々は一日の大半を家で過ごす。家は生活の拠点であり、作業場であり、食料・燃料などの貯蔵場でもある。その大切な家を雪から守ることは、雪国の人々にとって極めて重要な永遠のテーマである。

建造物に太い柱や梁を使い強固な構造とすることはもちろん、急勾配の茅葺屋根や農家の「中門造り」、梁を伸ばして深い軒先をつくる「船枻(せがい)造り」などの建築様式は、先人たちの雪との闘いの歴史を表している。

雪堀り 雪堀り

秋のうちに、建物を板で覆う「雪囲い」をしておき、風雪から守る。また、深雪の中から家を掘り出すかのような屋根の除雪「雪堀り」は、豪雪地で暮らす人々の宿命ともいえる作業で、危険を伴う重労働であった。現在市内では、居住部分を2・3階に配した高床式の住宅や、落雪・融雪屋根の住宅、耐雪住宅が普及している。雪国に建つ家々は、雪と闘い共生してきた人々の知恵と工夫の結晶である。

■豪雪地のまつりものがたり

婿投げ 婿投げ

十日町市では、新婚の男性を雪の中に投げ落とす「婿投(むこな)げ」や、「ホンヤラドウ」と呼ばれる雪の小屋をつくる鳥追いなど、雪国ならではの伝統行事が行われている。「節季市」は、もとは農家がワラ細工などを商った市で、現在も毎年1月に開催されている。子犬や十二支をかたどった米粉細工「チンコロ」が売られ、縁起物として人気を集めている。
昭和25年に始まった「十日町雪まつり」は、厳しい冬の暮らしを少しでも明るくしようという市民の思いから生まれた。集落や職場単位で製作される精巧な雪像は、世代を超えて継承されてきた技術と経験があってこそできる「雪の芸術作品」である。そのひとつひとつに、ともに助け合って雪国で生きてきた人々の連帯と、「雪を敵とせず友としよう」という十日町雪まつりの精神が表れている。雪に親しみ雪を楽しむ様々なまつりやイベントが、十日町市の白い冬を鮮やかに彩っている。

■豪雪地の美ものがたり

美人林 美人林

十日町市には、四季の移ろいによって全く違う表情を見せる、豊かで特徴ある景観が形成されている。棚田が広がる里山や、薪炭林として利用されたブナ林の風景からは、豪雪地の人々の知恵とたくましさを感じることができる。また、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の舞台でもある十日町市には、「清津峡」の柱状節理の雄大な景観と現代アートとが一体となった空間など、新たな魅力も生まれている。

野首遺跡出土品 野首遺跡出土品

縄文時代の遺跡の出土品も数多く、特に「火焔型土器」の圧倒的存在感は、5,000年の時を経てなお、人々を魅了してやまない。また、古代から時代を捉えた意匠で作られてきた十日町市のきものは、1,500年もの間多くの人々に愛され続けている。豪雪地の美は、冬の静寂の中で研ぎ澄まされた雪国の人々の感性から生み出されたのである。

■雪国の究極の春ものがたり

残雪の棚田 残雪の棚田

毎年11月頃の初雪から、半年近くにも及ぶ積雪期。すべてを白く覆いつくしていた雪が消えて土が顔をのぞかせる4月頃、雪国に春が到来する。花は一斉に咲き、ブナの芽がほころび、命が躍動する世界へと変貌を遂げる。「梅も桜もみな開く」と十日町小唄にも歌われるほど、その様は劇的である。しかし、春から秋までの間も、人々は次の雪の季節への準備を怠ることはない。やがてまた初雪が降り、白く長い冬が始まる。このように無雪期と積雪期とで別世界が出現する中、人々の暮らしは営々と続けられてきた。人々は、雪と闘い、雪を受け入れ、雪を活用し、雪に親しみ、雪に楽しみさえも見出して生き抜いてきたのである。十日町市は、豪雪とともに生きる暮らしと豪雪を友とする心が、縄文時代から受け継がれて今に息づく「究極の雪国」である。ここで日本文化の深奥ともいえる真の「豪雪地ものがたり」を体感してほしい。

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