女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~STORY #096

シェアして応援!SHARE

女性とともに今に息づく女人高野 ~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~ 女性とともに今に息づく女人高野 ~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~
女性とともに今に息づく女人高野 ~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~ 女性とともに今に息づく女人高野 ~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~
重要文化財 金剛寺多宝塔 重要文化財 金剛寺多宝塔 重要文化財 金剛寺多宝塔
国宝 室生寺五重塔 国宝 室生寺五重塔 国宝 室生寺五重塔
国宝 金剛寺三尊像 国宝 金剛寺三尊像 国宝 金剛寺三尊像
世界遺産 高野山女人道 世界遺産 高野山女人道 世界遺産 高野山女人道

ストーリーSTORY

高野山は、近代まで「女人(にょにん)結界(けっかい)」が定められ、境内での女性たちの参拝は叶わなかった。そんな時代にあっても女性たちの、身内の冥福(めいふく)を祈る声、明日の安らぎを願う声を聴いていた、「女人高野」と呼ばれるお寺があった。
優美な曲線を描くお堂の屋根、静かに願いを聴いている柔和なお顔の仏像、四季の移ろいを映す周囲の樹々、これらが調和した空間を『名所(めいしょ)図会(ずえ)』は見事に実写し、表現した。そこに描かれた「女人高野」は時を超え、時に合わせて女性とともに今に息づき、訪れる女性たちを癒し続けている。

■女人高野

「高野山にはの、女は入れへんがのう、この慈(じ)尊院(そんいん)までは上がれるんやしてよし。そやよってに、ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの」。これは有吉佐和子の名著、『紀ノ川』の冒頭部分である。

女人高野室生寺 女人高野室生寺

空海が弘(こう)仁(にん)7年(816)に嵯峨天皇から高野山を下賜(かし)され、高野山は開創当初から「女人結界」が定められたと伝えられている。これは修行者の堕落を防ぐための不(ふ)邪(じゃ)淫(いん)戒(かい)という戒(いまし)めによって、修行者を律するものであった。後の思想である、女性と穢(けが)れを結びつけ、聖域への立ち入りを禁じた「女人禁制」とは異なっていた。
この女人結界が解かれるのは、近代化を進める明治5年(1872)の太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によってであるが、高野山は更に遅れて明治後半になってからである。開創から千有余年の間、「高野山にはの、女は入れへんがのう」という時代が続いたが、そんな時代にあっても空海と縁を結び、祈りを届けたいという女性たちの願いを聴いていた、「女人高野」と呼ばれる4つのお寺があった。

宀(べん)一(いち)山(さん)室生寺(むろうじ)は徳川5代将軍綱吉の母、桂(けい)昌院(しょういん)の寄進によって堂塔を修理したことから女人高野と称するようになった。天野山(あまのさん)金剛寺(こんごうじ)は後白河院(ごしらかわいん)の妹、八条女院(はちじょうにょいん)の祈願所となったこと、そして八条女院に仕えていた2人の姉妹が出家し寺主になったことから女人高野と呼ばれた。万(まん)年山(ねんさん)慈尊院は空海の母、玉依(たまより)御前(ごぜん)が滞在し、没後本尊としていた弥勒菩薩(みろくぼさつ)に化身したという信仰から女人高野と呼ばれた。また、不動(ふどう)坂口(ざかぐち)女人堂(にょにんどう)は、高野七口に建てられた女性の参籠が許された七つの女人堂のうちの一つで、現存する唯一のお堂である。

■『名所図会』と女性の旅

この「女人高野」と呼ばれた寺院は江戸時代、諸国の社寺、景勝地など実景描写の挿絵を入れ、解説した『名所図会』に描かれていた。『名所図会』は徳川幕藩体制の安定、経済活動の進展にともなって、庶民も高野詣で、お伊勢参り、西国巡礼などお参りを兼ねて旅に出るという、近世において庶民の生活にも潤いが出てきた中で刊行された江戸時代の旅行ガイドブックである。

この頃の旅は、道や交通用具の発達した今日と違い、数か月に及ぶこともあった。特に女性にとっては関所における女(おんな)改(あらた)めは厳しく、また高野山への参詣も辛い山登りであった。

高野山への参詣道として七つの道があり、それぞれの道を登りきった女人結界には女性のための籠(こも)り堂として女人堂が建てられた。山内に入れない女性たちはここで手を合わせて祈り、夜を明かした。この七つのお堂は一つの道で繋(つな)がっており、女人道と呼ばれた。女人道は、女人堂から女人堂へと金剛峯寺を中心に蓮の花びらにたとえられた八葉(はちよう)蓮華(れんげ)の峰々の尾根伝いの道である。女人道という名からは想像を覆(くつがえ)す険しい道である。女性たちはお堂だけではなく、この険しい道を歩きながら樹間から垣間見える壇(だん)上伽藍(じょうがらん)や奥之院に手を合わせていた。この女人堂での参拝については、九州からの夫婦の高野詣で旅日記が現在に残り、それにより女人堂の間取りや参拝者が全国各地からであったことが分かっている。

女人堂の一つである不動坂口女人堂の前に地蔵尊(通称「お竹地蔵尊」)が造立されている。これは江戸の元飯田町の「横山たけ」という一人の女性が、亡夫の供養のため高野山に参詣し、女人堂に参籠していた時に夢に地蔵が現れたことから延享2年(1745)に造立したものである。

女性たちは、女人堂に籠り、夜通し祈った後に、眼下に悠々と流れる紀の川を見下ろしながら山を下りた。峠を越え、山を登る厳しい参詣が出来ない女性たちは高野山の麓にある慈尊院、高野街道近くの金剛寺でお参りをした。また、お伊勢参りと兼ねて伊勢本街道近くの室生寺に参詣していた。

左上:名所図会が描かれた金剛寺/中央上:現在の金剛寺境内/右上:住民とともに行う祭礼 左下:紀の川を見下ろす町石道/中央下:不動坂口女人堂/右下:険しい女人道 左上:名所図会が描かれた金剛寺/中央上:現在の金剛寺境内/右上:住民とともに行う祭礼  左下:紀の川を見下ろす町石道/中央下:不動坂口女人堂/右下:険しい女人道

■見守り続ける癒しの聖地

身内の冥福を祈り、明日の安らぎを願う声を聴き届けていた女人高野は、今も安産、授乳、育児や乳がん平癒(へいゆ)などを願って多くの女性たちが参詣している。

お寺では乳がん撲滅(ぼくめつ)を願い、ピンクリボンデーに読経とともに多宝塔(たほうとう)をピンクに染め上げ、文化財を活かした啓発活動をしている。また、世界文化遺産にもなった、高野山の麓から奥之院に続く町(ちょう)石(いし)道(みち)、女人堂と女人堂を繋ぐ女人道は、自然に恵まれた緑豊かな道であり、近年では多くの訪日外国人旅行者が文化財とともに、自然の癒(いや)しを愉(たの)み、時を超え、時に合わせて女性とともに今に息づいている。

優美な曲線を描くお堂の屋根、静かに願いを聴いている柔和(にゅうわ)なお顔の仏像、四季の移ろいを映す周囲の樹々、これらが調和した空間を見事に実写した『名所図会』の女人高野は、今も姿、形が変わることなく境内林に囲まれて佇み、また、住民とともに祭礼を行うなど地域に根ざし、多くの女性たちの願いを聴いている。これからも訪れる女性たちを心安らかに見守り、癒し続けて止むことはない。

左:慈尊院の乳型の絵馬/中央:ピンクリボン啓発ライトアップ/右:見守り癒し続ける仏像 左:慈尊院の乳型の絵馬/中央:ピンクリボン啓発ライトアップ/右:見守り癒し続ける仏像

ページの先頭に戻る