加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡-人、技、心-STORY #003

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高岡御車山祭 高岡御車山祭 高岡御車山祭
加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡
高岡御車山祭 高岡御車山祭 高岡御車山祭
高岡大仏 高岡大仏 高岡大仏
加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡

ストーリーSTORY

高岡は商工業で発展し、町民によって
文化が興り受け継がれてきた都市である。
高岡城が廃城となり、繁栄が危ぶまれたところで
加賀藩は商工本位の町への転換政策を実施し、
浮足立つ町民に活を入れた。
鋳物や漆工などの独自生産力を高める一方、
穀倉地帯を控え、米などの物資を運ぶ良港を持ち、
米や綿、肥料などの取引拠点として
高岡は「加賀藩の台所」と呼ばれる程の隆盛を極める。
町民は、固有の祭礼など、地域にその富を還元し、
町民自身が担う文化を形成した。
純然たる町民の町として発展し続け
現在でも町割り、街道筋、町並み、
生業や伝統行事などに、
高岡町民の歩みが色濃く残されている。

高岡城と城下町の形成

高岡は、北陸を代表する穀倉地帯を背後に控え、北は富山湾に面し、雨晴海岸からは海越しに3,000m級の立山連峰の大パノラマを見ることが出来る、美しく豊かな自然に恵まれた環境を有し、古くは旧石器時代まで遡る人々の営みが見られた。

現在の高岡の基盤は、近世初期に形成された。加賀前田家二代当主前田利長は、若き頃の居城であった二上山の山城(守山城)から俯瞰し、庄川と千保川に挟まれた「関野」と呼ばれた台地が水陸交通の要衝地として、軍事・経済面で重要な役割を果たす理想的な地であると見抜いた。

そして、地名を「関野」から「高岡」と改名し、慶長14年(1609)の春、利長の隠居城として高岡城の築城を開始した。荒れ地であったにもかかわらず、早急に軍事拠点として整備したい思惑があり、驚異的な早さで建設工事を進め、築城開始からわずか半年の慶長14年(1609)9月13日に利長は高岡城に入城。この日に高岡が開町されるに至った。

高岡城は、短期間に築城されたのにもかかわらず、二の丸、三の丸など7つの曲輪を土橋で繋げた「連続馬出」を有する緻密な縄張り(設計)で築かれており、当時最高水準の堅牢さを持つ城であった。

利長が実施した城下町に対する政策は、当時の主要交通路である北陸街道を町内に引き込むことに併せて武家屋敷、町人地、社寺地などの町割りをすることから始まり、円滑に資材の集積と調達を行うために、千保川と小矢部川が合流する水運の要衝地に物流拠点(木町)を設けた。また、産業振興政策としては砺波郡の西部金屋から7人の鋳物師を招き、無租地とするなどの厚い保護や特権を与え、鋳物づくりを行う鋳物師町(金屋町)を設けたほか、利長が武具や箪笥、膳などの生活用品を作らせたのが元となり漆器業(高岡漆器)が始まるなど城下町としての繁栄を図った。

高岡城跡 高岡城跡

しかし、高岡城を築城し、開町400余年に渡る高岡市発展の土台を築き上げた利長は、在城わずか5年の慶長19年(1614)5月20日に他界してしまう。家臣団はことごとく加賀前田家本拠地である金沢に引き揚げ、その翌年には徳川幕府の一国一城の令により、高岡城は廃城となったので、城下町の歩みを始めていた高岡は、たちまち絶望の淵に突き落とされたのであった。

城下町から商工業都市への転換

城がなくなれば、城下町は存在の意義を失ってしまう。町を存続するにはそれ相応の対策がなくてはならない。三代当主前田利常は、繁栄が一朝の夢に終わるかと思われた高岡に活を入れて立て直したのである。高岡町民の他所転出を禁じ、その上で、布御印押人を置くことで高岡を麻布の集散地とした。さらに、御荷物宿、魚問屋や塩問屋の創設を認め、城跡内には米蔵と塩蔵を設置するなど、商業都市への転換策を積極的に講じていった。

利常は、利長が高岡に相当の希望をかけていたことを知っていた。だからこそ、商業都市への政策転換を進める上でも、利長が築き上げた町割りなどを活かした形で行われた。異母弟である自分に家督を譲ってくれた利長への恩義も深く、菩提のために造営した壮大な伽藍建築を持つ瑞龍寺や大名個人の墓として異例の規模を誇る墓所は、利常自身のみならず、町民に永く利長の遺徳をしのばせ、併せて町の繁栄を願う気持ちも込めて建立された。また、利常は高岡が軍事拠点としての機能を失うことに対する危惧を持っていた。高岡城にあっては、平和的利用として米塩の藩蔵を建てることによって幕府に干渉の口実を与えず、城の郭や堀は完全な形で残すことができたのである。その姿は今日でも変わらない。また、瑞龍寺や墓所においても敷地を水堀で取り囲むなど、軍事拠点としての機能を密かに有していた。このように、利常の優れた経営手腕は、現在も数多く残る関連文化財群を訪れることで垣間見ることができる。

「加賀藩の台所」として隆盛を極めた高岡

利常によって再建された高岡は、利常の没後も加賀前田家の歴代当主たちがその意思を継ぎ、高岡の商工業発展のための方策を打ち出していった。利長が7人の鋳物師を招聘したことが発祥の鋳物業は藩政の保護を受け続けるとともに、町民自身も競い合いながら技を磨くことで日本有数の鋳物の町としての特色が根付いた。最初は、鍋・釜などの簡素な生活用具、農具等の鉄器具類が作られていたが、次第に魚肥を製造するための「ニシン釜」や製塩のための「塩釜」といった大型鉄器具のヒット商品を生み出した。そのほか、銅器の製造が始まり、18世紀後半になると香炉・花瓶・火鉢・仏具等の文化的な品物の需要が高まり、複雑で装飾性の高い製品が製造されていった。また、大型鉄器具や銅器の製造が盛んになるにつれて、これらの製品を売りさばく商人や問屋も次第に力をつけ、北前船(越中ではバイ船と呼ばれた)交易などによる国内流通の発展も伴い、江戸時代後期には全国各地に広い販路を確保し、海外貿易にも乗り出していくのである。

伏木港 伏木港

一方、高岡における海路の玄関口である伏木港(古くは伏木浦、伏木湊と呼ばれた)の重要性は時代が下るごとに増していった。17世紀からは砺波・射水両郡の穀倉地帯で収穫された加賀藩の年貢米を各地の御蔵等から河川の水運で伏木港右岸にある吉久地区に集積して、大阪に輸送する機能を果たした。17世紀中頃には西廻り航路が開拓され、関門海峡を経由し、船便で直接大阪に輸送できるようになり、従来の敦賀で陸揚げして琵琶湖の水運を利用して運ぶ輸送ルートに比べて効率性が格段に向上した。この頃、吉久地区の米蔵は加賀藩最大の御蔵となり「加賀百万石」を文字どおり下支えした。18世紀に入り、北海道への航路が開拓されると、伏木港では自ら北前船(バイ船)を所有して交易業を営む有力な廻船問屋が現れ、様々な商品の交易により経済活動が活性化した。流通の拠点として水陸の両路の基盤整備が進み、高岡が米や綿、肥料など生活に必要不可欠な物資の取引拠点として隆盛を極めた様子は、「加賀藩の台所」として後世に語り継がれている。
物資の取引拠点として富を得る一方、藩は町民が華美に流れるのを憂えていた。町民が贅沢を見倣うと勤労を厭うようになり、経済の基本を脅かすと考え、平生の倹約令を発していた。しかしながら、お祭りを盛大に行うことは奨励していたため、町民にとってはお祭りの日を待ちわび、日々の抑圧された不満を緩和するものとして盛大に行ってきた。

高岡御車山の御車山行事 高岡御車山の御車山行事

御車山祭はその代表的なもので、七基の御車山には彫金・漆工・染織など高岡の伝統工芸の粋を集めた豪華な装飾が施されている。前田利家が太閤豊臣秀吉から拝領したと伝わる山車を利長が町民に分け与えたことに起源を持ち、各部材の製作・購入・修理等は、開町以来培われてきた町民自身の経済力・工芸技術力によってなされた。高岡の繁栄に比例してそれらの力が増していくにつれて、山車を持つ各町の町民たちが主体となって競い合いながら絢爛豪華な装飾を施すようになった。現代まで受け継がれて毎年の祭日(5月1日)に町中を巡行している様子は貴重なものである。

現代に継承された町民の心意気とものづくりの職人魂

加賀前田家の庇護の下、町民自身が主体となって働きを行うことで繁栄を続けてきた高岡であったが、明治維新・廃藩置県によって加賀前田家の庇護を失った後も町民たちが歩みを止めることはなかった。これまでの北前船(バイ船)交易を中心として蓄えられた富は、銀行の設立や伏木港の近代化改修、日本海側で最初の私鉄である中越鉄道などへ投資され、全国的な時代の変遷に臆することなく好機と捉えて新しい商売に果敢に挑戦していった結果、日本海側屈指の商工都市としての地位を確立した。

伝統産業についても挑戦する姿勢に変わりはなく、鋳物業においては、ウィーンやパリなど明治期のヨーロッパで開催された万国博覧会に銅器作品を出品して高い評価を得た。そして、明治33年(1900)の高岡大火によって焼失した木製の大仏に替わって造られた青銅製の高岡大仏(銅造阿弥陀如来坐像)は鋳造から着色までの全工程を高岡の職人が手掛けており、高岡の鋳物業における集大成ともいえる作品である。昭和初期に入るとアルミニウム素材を使用した日用品の製造に挑戦。戦後の高度経済成長期にはアルミ製品の需要は急拡大して高岡の主力産業へと発展した。その一方で伝統的な香炉・花瓶・仏具等の製造も伝承しつつ、現代の最先端のデザインや錫(スズ)などの新たな素材の活用によって新商品を生み出し発展を続けている。

漆器業においても、幕末の嘉永3年(1850)には、石井勇助が中国・明代の漆器を研究し「勇助塗」を確立した。唐風の雰囲気を持つ意匠に錆絵や箔絵、要所に玉石や青貝加飾などの総合技法によって作られた作品で、明治期に入ると高岡漆器の代名詞と呼ばれるほどの高い評価を受けた。銅器作品と同じくウィーン万国博覧会に石井勇助作品の出品が行われたほか、文豪夏目漱石が、小説『虞美人草』の中で細工の美しさを褒め称えたほどである。現代においても、最先端のデザインや様々な素材に漆を塗る「変り塗」の活用によって新商品を生み出し発展を続けている。

現在の高岡を散策すると、町割り、街道筋、町並み、生業や伝統行事などに町民の歩みが独特の気風として色濃く残されている。競い合いと挑戦によって発展を続けてきた町民の気質は、DNAとしてこの町に住む人々に受け継がれており、高岡はまだ発展の最中にある。歴史と文化の保存・継承のみならず、歴史資産を活かした取組みを進めながら、新たなまちの文化や魅力の創造に繋げていく。
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