「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜STORY #006
ストーリーSTORY
戦国時代、岐阜城を拠点に
天下統一を目指した織田信長。
彼は戦いを進める一方、
城内に「地上の楽園」と称される宮殿を建設、
軍事施設である城に
「魅せる」という独創性を加え、
城下一帯を最高のおもてなし空間としてまとめあげる。
自然景観を活かした城内外の眺望や
長良川での鵜飼観覧による接待。
冷徹なイメージを覆すような信長のおもてなしは、
宣教師ルイス・フロイスら世界の賓客をも魅了した。
信長が形作った城・町・川文化は城
としての役割を終えた後も受け継がれ、
現在の岐阜の町に息づいている。
天下統一を目指した織田信長。
彼は戦いを進める一方、
城内に「地上の楽園」と称される宮殿を建設、
軍事施設である城に
「魅せる」という独創性を加え、
城下一帯を最高のおもてなし空間としてまとめあげる。
自然景観を活かした城内外の眺望や
長良川での鵜飼観覧による接待。
冷徹なイメージを覆すような信長のおもてなしは、
宣教師ルイス・フロイスら世界の賓客をも魅了した。
信長が形作った城・町・川文化は城
としての役割を終えた後も受け継がれ、
現在の岐阜の町に息づいている。
「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜
戦国時代、織田信長の義父にあたる斎藤道三は井口(いのくち)と呼ばれる城と町を築いた。後にその町を手に入れた信長は、この地を岐阜と名付けるとともに「天下布武」を掲げ、天下取りの夢に邁進する。日本史上、最も有名な人物の一人である彼は、冷徹非道、戦上手、改革者、破壊者等のイメージで語られることが多いが、急峻な岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも手厚いおもてなしであった。信長は軍事の力で征服するだけでなく、文化の力で公家、商人、有力大名等の有力者をもてなすことで、仲間を増やしていったのである。
岐阜城に入城した信長は、最初に城の大改造に着手する。山麓では比類ない巨大庭園を持った迎賓館が造られた。近年、岩盤を自然風に加工した庭園が発掘調査により複数見つかっており、その全体像が判明しつつあるが、それはまるで山水画の世界を原寸大で再現したような壮大なスケールで、他に例がない。ルイス・フロイスは、山麓の建物を「宮殿」と称し、「地上の楽園」のようであったと記している。山上の城郭部分は石垣を用いて堅固な城郭に造り替えられたが、信長はなんとその場所にも人を招いた。このように彼は戦いを進める一方、金華山や長良川の美しい自然環境や眺望を活かして、岐阜の地に最高のおもてなし空間を創出していったのである。そして限られた人しか入れない特別な場所で、通常家臣が行うような案内や給仕を自ら行う、これが信長流のおもてなしであった。
武田信玄の使者「秋山伯耆守」、京都の公家「山科言継」、堺の茶人・商人「津田宗及」、そしてイエズス会宣教師の「ルイス・フロイス」や「フランシスコ・カブラル」、多くの有力者が信長に会いに岐阜を訪れ、冷徹なイメージを覆すおもてなしを受けている。そして、その様子は国内のみならず、手紙を通じて広くヨーロッパにも伝わった。
もてなしの拠点である山麓居館は訪問者が最初に招かれる場所で、そこでは建物や庭の見学、踊りと歌、オヤツや食事、贈り物等が行われた。日本布教長フランシスコ・カブラル来訪の際、信長は歓迎の晩餐会を開くが、食事までの待ち時間に自ら果物を持っていくとともに、庭にいる鳥を殺させて料理に出すよう命じている。また名物茶器拝見のため訪れた津田宗及に対しては、彼のためだけの茶会を開き、美濃特産の干柿を含んだ豪華な料理を振る舞うなどして、その思いに応えた。堺の代表的な町衆であった宗及の扱いは破格で、食事の給仕は信長の息子信雄が行った上、飯のおかわりは信長自らがよそっている。
岐阜城に入城した信長は、最初に城の大改造に着手する。山麓では比類ない巨大庭園を持った迎賓館が造られた。近年、岩盤を自然風に加工した庭園が発掘調査により複数見つかっており、その全体像が判明しつつあるが、それはまるで山水画の世界を原寸大で再現したような壮大なスケールで、他に例がない。ルイス・フロイスは、山麓の建物を「宮殿」と称し、「地上の楽園」のようであったと記している。山上の城郭部分は石垣を用いて堅固な城郭に造り替えられたが、信長はなんとその場所にも人を招いた。このように彼は戦いを進める一方、金華山や長良川の美しい自然環境や眺望を活かして、岐阜の地に最高のおもてなし空間を創出していったのである。そして限られた人しか入れない特別な場所で、通常家臣が行うような案内や給仕を自ら行う、これが信長流のおもてなしであった。
武田信玄の使者「秋山伯耆守」、京都の公家「山科言継」、堺の茶人・商人「津田宗及」、そしてイエズス会宣教師の「ルイス・フロイス」や「フランシスコ・カブラル」、多くの有力者が信長に会いに岐阜を訪れ、冷徹なイメージを覆すおもてなしを受けている。そして、その様子は国内のみならず、手紙を通じて広くヨーロッパにも伝わった。
もてなしの拠点である山麓居館は訪問者が最初に招かれる場所で、そこでは建物や庭の見学、踊りと歌、オヤツや食事、贈り物等が行われた。日本布教長フランシスコ・カブラル来訪の際、信長は歓迎の晩餐会を開くが、食事までの待ち時間に自ら果物を持っていくとともに、庭にいる鳥を殺させて料理に出すよう命じている。また名物茶器拝見のため訪れた津田宗及に対しては、彼のためだけの茶会を開き、美濃特産の干柿を含んだ豪華な料理を振る舞うなどして、その思いに応えた。堺の代表的な町衆であった宗及の扱いは破格で、食事の給仕は信長の息子信雄が行った上、飯のおかわりは信長自らがよそっている。
フロイスや山科言継は山上にも招かれ、軍事施設である城内の見学をした。豪華な座敷では音楽を聴きお茶や食事をいただいたが、その際も信長が膳を運んだり、給仕を行った。濃尾平野を一望する山上からの絶景は、昔も今も大きな見どころである。言継は「険難の風景、言語に説くべからず」とその感想を記している。
信長は、楽市楽座の一方で川湊の商人に舟木座の結成を認めるなど柔軟なまちづくりを行い、道三が築いた長良川の水運を基軸とした城下町を国内有数の商業都市へ発展させた。街路はこの時から変わっておらず、「戦国城下町」としての町の骨格は、現在に継承されている。フロイスはその町に一万人が住んでいたと記し、賑わいの様子を「バビロン」の混雑と表現した。また柴田勝家の邸宅では「食事をするまで帰してもらえなかった」そうで、城下町での手厚いおもてなしぶりが窺える。
言継は一ヶ月以上に及ぶ岐阜滞在期間中に、善光寺や法華寺など城下町の名所を訪れているが、評判の灯篭は人ごみが激しかったため見物を断念している。時期が合えば伊奈波神社の祭礼も見物しただろう。岐阜まつりと呼ばれる一連の祭礼は地域を代表する祭りとして継承されており、踊山車やカラクリ山車、神輿の練り込みが披露されるなど春の風物詩となっている。城下町では団扇など、上流から運ばれた和紙や竹などを用いた文化が育まれた。その文化は廃城後もさらに洗練され、提灯や和傘、そして日本最大の漆箔の大仏である岐阜大仏を生み出し、町に更なる賑わいをもたらした。
秋山伯耆守は山麓での食事や能の鑑賞の後、長良川での船による鵜飼観覧に招かれた。信長は武田信玄に気を遣い、獲れた鮎を自ら確認して甲府に届けさせている。また信長は「鵜匠」の名称を与え、禄米十俵を給して保護したと伝えられており、その後も徳川家康・秀忠親子が鑑賞しこれを称えたことで、鵜飼は時代を通じて大事に守られてきた。松尾芭蕉は「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」と有名な句を残しており、近代には英国皇太子やチャップリン等、国内外の賓客が鵜飼観覧に訪れている。
鵜飼でとれる鮎は、柿と共に古代から美濃の特産品であった。江戸時代になると町中の御鮨所で調製された鮎鮨が、御鮨街道と呼ばれる道を通って将軍家に献上されるようになる。現在も鵜匠家には鮎鮨の製造技術が伝承され、年末年始の贈答用として製造されている。鵜飼を中心としたお客をもてなすための様々な技術や遊宴文化は今も伝承され多くの観覧客を魅了しているが、このような鵜飼文化は日本独自のものであり、現代まで途切れることなく受け継がれているものは長良川の鵜飼のみである。
自然景観を背景に行われる饗応は、中世以前から日本各地に存在するが、その根底には自然に溶け込むことに美意識を見出すという日本人の伝統的な価値観がある。信長は金華山や長良川、城下町の賑わいが一体となった素晴らしい景観や鵜飼文化にその価値を見出した上で、軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加え、他に例の無いおもてなし空間としてまとめあげ、饗応を行った。岐阜は信長自慢のおもてなし都市だったのである。その信長が形作った戦国時代の城・町、そして長良川の鵜飼文化は、岐阜城が城としての役割を終えた後も受け継がれ、今も岐阜の町に息づいている。
なお、信長はフロイスとの別れ際に次のように告げている。「美濃へは何度でも訪れよ」と。
言継は一ヶ月以上に及ぶ岐阜滞在期間中に、善光寺や法華寺など城下町の名所を訪れているが、評判の灯篭は人ごみが激しかったため見物を断念している。時期が合えば伊奈波神社の祭礼も見物しただろう。岐阜まつりと呼ばれる一連の祭礼は地域を代表する祭りとして継承されており、踊山車やカラクリ山車、神輿の練り込みが披露されるなど春の風物詩となっている。城下町では団扇など、上流から運ばれた和紙や竹などを用いた文化が育まれた。その文化は廃城後もさらに洗練され、提灯や和傘、そして日本最大の漆箔の大仏である岐阜大仏を生み出し、町に更なる賑わいをもたらした。
秋山伯耆守は山麓での食事や能の鑑賞の後、長良川での船による鵜飼観覧に招かれた。信長は武田信玄に気を遣い、獲れた鮎を自ら確認して甲府に届けさせている。また信長は「鵜匠」の名称を与え、禄米十俵を給して保護したと伝えられており、その後も徳川家康・秀忠親子が鑑賞しこれを称えたことで、鵜飼は時代を通じて大事に守られてきた。松尾芭蕉は「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」と有名な句を残しており、近代には英国皇太子やチャップリン等、国内外の賓客が鵜飼観覧に訪れている。
鵜飼でとれる鮎は、柿と共に古代から美濃の特産品であった。江戸時代になると町中の御鮨所で調製された鮎鮨が、御鮨街道と呼ばれる道を通って将軍家に献上されるようになる。現在も鵜匠家には鮎鮨の製造技術が伝承され、年末年始の贈答用として製造されている。鵜飼を中心としたお客をもてなすための様々な技術や遊宴文化は今も伝承され多くの観覧客を魅了しているが、このような鵜飼文化は日本独自のものであり、現代まで途切れることなく受け継がれているものは長良川の鵜飼のみである。
自然景観を背景に行われる饗応は、中世以前から日本各地に存在するが、その根底には自然に溶け込むことに美意識を見出すという日本人の伝統的な価値観がある。信長は金華山や長良川、城下町の賑わいが一体となった素晴らしい景観や鵜飼文化にその価値を見出した上で、軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加え、他に例の無いおもてなし空間としてまとめあげ、饗応を行った。岐阜は信長自慢のおもてなし都市だったのである。その信長が形作った戦国時代の城・町、そして長良川の鵜飼文化は、岐阜城が城としての役割を終えた後も受け継がれ、今も岐阜の町に息づいている。
なお、信長はフロイスとの別れ際に次のように告げている。「美濃へは何度でも訪れよ」と。
【「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 関連情報サイト】 |
---|