日本茶800年の歴史散歩STORY #009
ストーリーSTORY
京都・南山城は、お茶の生産技術を向上させ、
茶の湯に使用される「抹茶」、
今日広く飲まれている「煎茶」、
高級茶として世界的に広く知られる
「玉露」を生み出した。
この地域は、約800年間にわたり
最高級の多種多様なお茶を作り続け、
日本の特徴的文化である茶道など、
我が国の喫茶文化の展開を生産、
製茶面からリードし、発展をとげてきた歴史と、
その発展段階毎の景観を残しつつ
今に伝える独特で美しい茶畑、茶問屋、
茶まつりなどの代表例が優良な状態で揃って残っている唯一の場所である。
日本茶800年の歴史散歩
宇治茶のはじまり
宇治茶の確立と初期の景観
~抹茶の誕生~
煎茶・玉露の誕生と新しい景観
煎茶普及による需要拡大に応えるため、和束町『湯船』『原山』などの山間部では農家の裏山の傾斜地をそのままに開墾し、中腹まで等高線状に茶畝を作る露地栽培が盛んになり、山なり茶園の景観がつくり出された。
この地の革新を求める風土は更なる上質な茶を追求し、覆下栽培と宇治茶製法を結びつけ、世界的な最高級緑茶である甘みとコクの豊かな「玉露ぎょくろ」を生み出した。この茶葉の栽培には砂地が向いており、まず木津川河川敷の八幡市と城陽市の『上津屋こうづや』、久御山町の『浜台』に浜茶として良質な茶園が広がった。上津屋は木津川の右岸と左岸にあるにも関わらず、1889年までは上津屋村として一つの共同体であり、現在も長大な木製の流れ橋(上津屋橋)により密接なつながりを保っている。
また、木津川に隣接する京田辺市の小高い円錐台状の丘陵地『飯岡いのおか』では周囲に水田(覆材の稲藁)、裾野に覆下茶畑、竹林(覆下組立材)、上部に集落(茶農家)と展開する玉露生産の特徴的な景観が見られる。
宇治茶の近代景観
20世紀以降、より大量の茶葉を生産するため、農家近くの山腹だけでなく、山頂まで「山なり開墾」されるようになり、天まで届くかのような独特の美しい横畝模様の茶畑景観が和束町『石寺』『撰原』『原山』などに広がった。また、高山ダムの建設により山の中腹以上に茶園を移した南山城村『田山』『高尾』では気候を考慮し、山頂から中腹にかけ天から落ち込むような珍しい縦畝模様の茶畑が広がり、その中に茶農家が点在する独特の景観を形作っている。
宇治茶、お茶文化の継承への取組
茶家では、八十八夜の頃に摘んだ新茶を茶壺に入れ、冷暗所で夏を過ごさせ、熟成したうまみの出る秋に茶壺から茶葉を出し石臼でひいて飲むこととされていた。その風習を今に受け継ぐため、毎年10月には宇治茶まつりを催し、茶祖に献茶する『茶壺口切りの儀』、使い古した茶筅ちゃせんの供養をする『茶筅塚供養』が営まれ、多くの人が訪れる。
加えて、京都府では1901年以来、茶業を専らとする高等学校を設立し、人材育成に努めるとともに、1914年には、茶業の研究機関を設け、製茶機械や覆下栽培、品種改良、茶の旨み成分(テアニン)の発見など茶業の新しい技術・文化の創造に取り組んでいる。
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ピックアップコラムCOLUMN
日本遺産に関するエピソードや
トリビアをお届けします。
お茶、飲みますか?
お茶、飲みますか?
いきなりですが、みなさん、お茶はお好きですか?どんなお茶を飲みますか?
「お茶」と一口に言っても、緑茶や紅茶、ウーロン茶など、様々な種類があります。
さらに、緑茶にも色々な種類があり、煎茶(せんちゃ)やかぶせ茶、玉露(ぎょくろ)、碾茶(てんちゃ)など、製法によって、その味も飲み方も変わります。
たとえば、玉露やかぶせ茶、碾茶は、日光を遮るために茶畑に覆いを被せます。
みなさんは、茶畑の写真で、畝が黒く覆われているシーンを見たことはありませんか?
あのシーンはまさに、日光を遮る覆いを被せているところなのです。
日光を遮ることで、苦みや渋みが少なく、旨みや甘みの豊かな茶葉になります。
碾茶も覆いを被せてつくるお茶ですが、そもそも「碾茶」って、あまり聞きなじみがないかもしれません。
でも、「抹茶(まっちゃ)」と聞くと、どんなお茶かイメージできるのではないでしょうか。
あの美しい緑色の粉末が抹茶です。
抹茶は、碾茶の茶葉を石臼などで挽くことで粉末状に加工したものなのです。
ちなみに、「碾茶」の「碾」という漢字は、「石臼」とか、「すりつぶす」という意味なのだそうです。
ほんとにそのまま、どストレートなネーミングですね。
どストレートなネーミングといえば、「かぶせ茶」も。
覆いを被せるから、「かぶせ茶」。
なんとも端的な、わかりやすい名前ですが、こちらも聞いたことがない、という方もいらっしゃるかもしれません。
玉露よりも短い期間、覆いを被せているのが「かぶせ茶」です。
お茶の苦さや渋さがちょっと苦手、という方にはとってもオススメなお茶の種類です。
紅茶やウーロン茶も、実は、緑茶と同じ「チャノキ」の葉っぱからつくられます。
茶葉の成分を酸化させることで、お茶の色も味も変わるのです。
途中で酸化をストップさせたものがウーロン茶、完全に酸化させたものが紅茶です。
同じチャノキの葉っぱなので、実は、日本でもウーロン茶や紅茶はつくられています。
とくに、日本の茶葉でつくられた紅茶は「和紅茶(わこうちゃ)」といって、最近ではスーパーやコンビニでも見かける機会が多くなってきました。
和紅茶は、海外の紅茶よりも茶葉本来の甘みを感じられるものが多く、料理にも合わせやすいのが特徴です。
ストレートで茶葉の甘みを感じていただくのがオススメです。
日本茶のふるさと「お茶の京都」
日本茶の歴史は古く、なんと800年前まで遡ります。
今でこそ、様々な種類のお茶を飲むことができますが、日本茶800年の歴史の中で、技術の革新や新たな製法が生み出され、その結果として、現在のようなお茶の楽しみ方のバリエーションがあります。
抹茶パフェや抹茶ジェラート、ほうじ茶ラテなどなど、およそ鎌倉時代には想像もつかなかったお茶の未来を今、楽しんでいるわけですね。
実は、現在のあの爽やかな緑色の煎茶という種類自体も、鎌倉時代からあったわけではなく、江戸時代に発明されたものです。
当時の煎茶は赤黒く、味も見た目も良いものではありませんでしたが、江戸時代中頃の1738年に、永谷宗円(ながたにそうえん)が茶葉を手もみして乾燥させる製法を考案し、煎茶の色・味・香りに革命をもたらしました。
「日本緑茶の祖」と呼ばれる永谷宗円の生家は、京都府宇治田原町にあり、土日祝日には、内部を見ることもできます。
○永谷宗円生家
https://ochanokyoto.jp/spot/detail.php?sid=299
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/491/
革新的な飛躍を遂げた煎茶。
美しい色をした煎茶を前に、江戸時代の人々からは、「これは、おいしい!!」という感激の声が聞こえてきそうですが、茶栽培の起源に遡ると茶の種を手に握る鎌倉時代の人々からは、「これは、どうしたらいいんだ!?」というため息交じりの声が聞こえてきます。
それもそのはず、鎌倉時代に中国から茶の栽培方法が伝わりますが、茶の種を手にした宇治の人々は、種の蒔き方さえ分からず、困っていました。
そこに、馬に乗った明恵上人(みょうえしょうにん)が通りかかります。
この明恵上人は、中国から届いた茶の種を植えて、茶の栽培を始めた張本人。
困り果てた様子を見て、馬で畑の中に乗り入れ、「この馬のひづめの跡に種を蒔きなさい。」と教えたそうです。
それ以来、宇治にも茶の栽培方法が伝わり、「宇治茶」としての歴史がスタートするわけです。
そんな伝説を今に伝えるのが、京都府宇治市の萬福寺の総門前にある「駒蹄影園跡碑(こまのあしかげえんあとひ)」。
○駒蹄影園跡碑
https://ochanokyoto.jp/spot/detail.php?sid=736
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/443/
あくまでも伝説ですので、実際にそういうシーンがあったのかどうかはわかりませんが、それでも、中国から日本に茶の栽培方法が伝わったという、日本茶にとっては誕生日ともいえる大切な一日が確かにあったわけで、800年前のその日がなければ、この「ほっ」と温かい吐息を生み出す、昔からの親友みたいな、あるいは家族みたいなこの飲み物は、きっとあり得なかったんだろうな、と思うと、お茶の旨みも一入(ひとしお)です。
ドラマティックなその現場は、800年の時を経て、おいしいお茶に出逢える「お茶の京都」と呼ばれるようになりました。
みなさんも、ぜひ、お気に入りのお茶、お気に入りの飲み方、楽しみ方を見つけてください!
そして、日本茶のふるさと「お茶の京都」にぜひ、来て、見て、味わってください。
お茶をおいしく感じるお気に入りのスポットがきっと見つかるはず。
お茶の京都エリアの情報はこちらから。
https://ochanokyoto.jp/