木曽路はすべて山の中~山を守り 山に生きる~STORY #028

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木曽路はすべて山の中 木曽路はすべて山の中
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赤沢自然休養林 木曽路はすべて山の中 木曽路はすべて山の中
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ストーリーSTORY

戦国時代が終わり
新たな町づくりがすすめられると、
城郭・社寺建築の木材需要の急増は
全国的な森林乱伐をもたらした。
森林資源が地域の経済を支えていた木曽谷も
江戸時代初期に森林資源の枯渇という
危機に陥る。
所管する尾張藩は、
禁伐を主体とする森林保護政策に乗り出し、
木曽谷の人々は、新たな地場産業に
くらしの活路を見出した。
そして、江戸時代後期、
木曽漆器などの特産品は、
折しも街道整備がすすみ増大した
御嶽登拝の人々などによって、
宿場から木曽路を辿り全国に広められた。
江戸時代、全国に
木曽の名を高めた木曽檜や木曽馬、
木曽漆器など伝統工芸品は、
今も木曽谷に息づく木曽の代名詞である。

木材需要の増大による森林資源の枯渇と 厳しい森林保護政策

白山神社(大桑村) 白山神社(大桑村)

「木曾のナァーなかのりさん木曾のおんたけナンチャラホイ」と歌われる木曽節の「なかのりさん」とは檜を筏に組んで川を下る筏師のことだという。木曽檜は、木曽谷の代名詞ともいえる産業である。木目が緻密で優良な木曽檜は、鎌倉時代に造られた木曽谷最古の神社である白山神社など、古来神社仏閣建築に重用され、約330年前から、伊勢神宮が20年に1度、お宮を新たに建て替える式年遷宮の際に用いる御神木としても使われ続けている。
この名木に危機が訪れたのは、江戸時代初期のことであった。戦国時代が終わり、安土・桃山時代以降、新たな町づくりが進められると、城郭・社寺建築の木材需要が急増し、全国的な森林乱伐をもたらした。江戸幕府から良材の無尽蔵の宝庫と目された木曽谷は、江戸・駿府・名古屋の城と城下町などの建設のために膨大な用材が伐り出され、深刻な森林資源の枯渇に陥ったのである。

木曽谷を所管する尾張藩は、江戸時代初期から木曽檜などの伐木への制限に乗り出した。この制限は、江戸時代中期には木曽谷のほぼ全域に及び、「木一本首一つ枝一本腕一つ」といわれたヒノキなど木曽五木を伐れば死罪という徹底した森林保護となり、木年貢も廃止された。この施策は、山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったが、森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となった。

木曽領民のくらしを支えた地場産業

森林保護政策により山での採集を制限された木曽領民には、木曽の風土に根ざした地場産品の生産が奨励された。

木曽代官4代目山村良豊は、奥州から良馬の南部馬を買い入れ、木曽地域の風土に合う山坂に強い木曽馬に改良して、農民に飼育させることを奨励した。また、禁伐を課す代わりに領民の既得権として藩から村に支給される御免白木(使用が許可された材木を割って半製品にした材料)を利用しての曲物、漆器、お六櫛などの工芸品や木材加工、養蚕、生糸業、さらに御嶽山修験者から地元の人々に伝授された山野の薬草の製薬技術による「百草」製造などを地場産業として積極的に奨励した。地場産品と整備の進んだ中山道の流通経済を活かして産業振興を図ったのである。

木曽馬は、性格がおとなしく小型であるため女性でも世話できる農耕馬であり、馬市で売り買いされるだけでなく、領民の農耕・運輸にも大いに役立ち、江戸時代後期には領内に数千頭の木曽馬が飼育されていた。また、陶器に比べ軽く壊れにくい木工品や漆を施し耐久性を高めた漆工品は、木曽路を辿り全国に広まった。

こうして発展した木曽谷の地場産業は、江戸時代中期以降、領民のくらしを支えた。

左:木曽馬と御嶽山(木曽町)/右:お六櫛(木祖村) 左:木曽馬と御嶽山(木曽町)/右:お六櫛(木祖村)

賑わう宿場の形成と地場産品の流通

寝覚めの床(上松町) 寝覚めの床(上松町)

木曽路は、鎌倉・室町時代までには信濃と京都・伊勢などを結ぶ重要な通路として発展していたが、江戸時代には、五街道の一つ中山道の街道整備とともに木曾11宿といわれる宿場が発達した。寝覚の床、桟、鳥居峠から遙拝する御嶽山など木曽谷の情景は、訪れた多くの俳人や浮世絵師などを惹きつけ、詩歌や版画となって世に知られるようになった。
宿場は訪れる人々を迎えることによる経済的利益の他に、木曽馬や木工品など地場産品の需要をもたらす生産・販売・運輸の拠点として賑わい、木曽谷の経済を牽引した。

奈良井宿は、幕府関係の公用旅行者や参勤交代の大名通行のために人馬を常備し、輸送・通信などの業務を負う代わりに一般の通行に対する独占的な稼ぎが許され、多くの旅行者の宿泊・休息のための旅籠や茶屋などが設けられていた。江戸時代中期には、宿場の規模は南北約1kmに及び「奈良井千軒」と謳われ、常時2000人以上が働いていた。これは、宿場に職人町も構えていたためであり、奈良井宿は、木曽谷住民に許された御免白木6000駄のうち1500駄(1駄は馬1頭が運ぶ荷物の量、約135㎏)もの材料が割り当てられ、檜物細工や塗物、塗櫛などを多く産し、近くの漆工町木曾平沢とともに地場産業の木工品や漆工品の名産地になった。

妻籠宿は室町時代、木曽義仲の子孫義昌が木曽谷の南の備えとして整備した山城妻籠城の麓に形成された。江戸時代中期、規模は南北約250m程と11宿中最小ではあるが、人口は400人を超えた。これは、31軒もの旅籠と地場産業に従事する人口が多かったことによる。江戸時代初期には宿場近くに木地師と呼ばれる「ろくろ細工」職人の集落があり、木工品の産地であったが、江戸時代中期、森林保護政策が強化されると村の庄屋が尾張藩に請願して檜物細工の御免白木の許可を得て、網笠の地場産業をおこした。農家の女性たちの手作業による蘭桧笠は、旅行者や僧侶の移動、農作業、茶摘み、舟下り、漁業、林業、土木など広範囲の用途に晴雨にかかわらず着用されたため、木曽路を通じて全国に広まった。

左:妻籠宿の町並み(南木曽町)/右:蘭桧笠製作(南木曽町) 左:妻籠宿の町並み(南木曽町)/右:蘭桧笠製作(南木曽町)

江戸時代中期、街道整備がすすみ庶民の御嶽登山が盛んになると、全国から多くの御嶽山信仰の人々が訪れた。訪れた信者の数は、登山道沿いなどに建てられた霊神碑が数万基にのぼることからもその規模の大きさがわかる。御嶽山と木曽路を行き来する人々によって、木曽谷の流通はさらに促進された。室町時代以来、御嶽山麓の修験者が携帯したといわれる「そば」は御嶽山麓開田の特産となり、登拝のために訪れた人々などによって、木曽谷の地場産品や薬「百草」などとともに宿場から木曽路を辿り全国に広められた。

近代に入り、御嶽山麓の森林鉄道に木曽檜を満載した列車が走る。木曽谷の人々が守り続けた木曽檜は、再び木曽の代名詞として蘇った。そして、農家や職人町、宿場など木曽谷のあらゆる人々がそれぞれの生業を活かして発展させた地場産業は、全国に名高い在来馬や伝統工芸品などに結実した。

文豪島崎藤村の『夜明け前』は「木曽路はすべて山の中」で始まる。木曽谷の山と木曽路は、木曽谷の人々の「山を守り、山に生きる」くらしを育んだ。そのくらしは、森林の保護、木曽路や宿場の保存、伝統工芸品の伝承を大切に思う心を培い、今も木曽谷に息づいている。

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