やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく~STORY #054
ストーリーSTORY
耶馬渓とは、川が溶岩台地を浸食した奇岩の渓谷で、
石柱の断崖、岩窟、滝、巨石が大パノラマをつくっています。
その深く神秘な地形は伝説と祈りの場所となり、
山水画のような風景は文人画人憧れの地でもありました。
1000 年以上の昔から、
人々は岩から仏、石橋、洞門、庭園と、優れた作品を生み出し、
広大な大地に配しては回遊路でつないでいき、
大正時代ついに一本の絵巻物のようにまとめあげました。
次々と場面が展開する「耶馬渓」という山水絵巻に入り込み、
空から、谷底から、遊覧の旅をお楽しみください。
石柱の断崖、岩窟、滝、巨石が大パノラマをつくっています。
その深く神秘な地形は伝説と祈りの場所となり、
山水画のような風景は文人画人憧れの地でもありました。
1000 年以上の昔から、
人々は岩から仏、石橋、洞門、庭園と、優れた作品を生み出し、
広大な大地に配しては回遊路でつないでいき、
大正時代ついに一本の絵巻物のようにまとめあげました。
次々と場面が展開する「耶馬渓」という山水絵巻に入り込み、
空から、谷底から、遊覧の旅をお楽しみください。
目次
耶馬渓とは、山国川が溶岩台地を深く浸食してつくりだした奇岩の渓谷で、中津・玖珠の二つの城下町に挟まれています。南北32km東西36kmの敷地に、断崖、岩窟、渓流が大パノラマをつくり、その深く神秘な地形は伝説と祈りの場所となりました。人々が時をかけ岩を削り想いを描き、一本の絵巻のようにまとめあげた「耶馬渓」の遊覧ゆうらんの旅に出かけましょう。
巨石伝説の山 -八面山-
海辺の城下町中津を出発しまず目に入るテーブル状の山は、耶馬渓の入口、様々な伝説を持つ巨石が群をなす霊峰「八面山」です。修験の滝や奇岩を巡り頂に登れば、北は中津平野と周防灘、南は耶馬渓~玖珠の山々まで、広々とした眺望が開けます。約1000年前の平安時代より、八面山を中心に、古代仏教文化が花開き、人々は周辺の岩屋に仏を安置していきました。
絶壁をつたい仏に会う -羅漢寺・古羅漢-
八面山から望む岩山を目指し、参道の細く長い石畳の先に岩窟の寺院「羅漢寺」があります。羅漢寺と、対岸に盛り上がるごつごつとした峰「古羅漢」の探勝道では、人々は二千体の石仏を彫り、仏の教えを伝える意味をもたせて配しました。天然の石橋や岩窟、岩肌に巡らせた鎖をつたい登れば、約650年前の室町時代に彫られた日本最古の五百羅漢石仏が迎えてくれます。山腹に中津藩主が築いた「指月庵」庭園は、文人画人達が眺望を愛でつつ酒を酌み交わし創作をする場でもありました。
岩窓にさす光、断崖からの眺望 -青の洞門・競秀峰-
羅漢寺から下った山国川沿いには、屏風を立て並べたように折れ重なる巨大な岸壁「競秀峰」が現れます。この岩壁沿いの道から川に落ち命をなくす人々を救うため、約200年前の江戸時代、「禅海和尚」は30年かけてトンネル「青の洞門」を掘りました。岩窓からさす光に照らされた無数のノミ跡から和尚の熱い想いが伝わる洞門の暗がりを抜けると、競秀峰の尾根道から見渡す眼下に断崖と渓流が織りなす絶景が広がります。ここは「福澤諭吉」が土地を買い開発から守った景勝地です。
岩峰せまる神秘の谷 -深耶馬渓-
川沿いの青の洞門を発ち玖珠へ向けて奥深く分け入ると、岩峰が覆いかぶさるように迫る渓谷に入ります。ここは約120年前の明治時代、中津出身で玖珠郡長の「村上田長」が困難を乗り越え中津と玖珠をつなぐ道路を開鑿して姿を現した秘境「深耶馬渓」です。切り立った奇峰に八方ぐるりと囲まれる「一目八景」、いくつもの一枚岩の滝が連続し薄暗い谷底から見上げる細い空に岩峰がそびえる「麗谷」や「大谷渓谷」の神秘的な空間は「天下の勝地」と呼ばれ新しい観光地となりました。
テーブルマウンテンに囲まれた町-玖珠の森城下町-
細くほの暗い深耶馬渓を抜け視界が突然開けると櫛歯状の断崖「大岩扇山」が出迎え、日本一小さな城下町とよばれる「角埋山」麓の森城下町に辿りつきます。明治時代の大火を乗り越え100年前耶馬渓観光の出入口として再興した城下町の中心は、城の構えを持つ神社に、巨石を大胆に展開する藩主の庭園。奇峰の谷から一転「伐株山」をはじめとしたテーブル状の山並みに包まれると巨大な箱庭に迷い込んだ心地がします。
石柱が天を突く河童の隠れ里 -裏耶馬渓・奥耶馬渓-
森城下町から西に回遊すると、にょきにょきと伸びる石柱群の裾に集落が寄り添う「裏耶馬渓」に到着し、さらに西へ山国川を遡った先の源流の地「奥耶馬渓」では、石が何万年もの時をかけ川底に穴をあけた甌穴群の水辺が続きます。川の音しか聞こえない自然の中の温泉と暖かなすっぽん料理が旅人を癒し、奥深い谷や岩窟は落人伝説を生み、あちこちの谷で平家の落人が子河童となり登場する河童祭りが伝えられています。のどかな楽の音にのり飛び跳ね、いたずらをしてはカラフルな大団扇で追い詰められる子河童たちが住む里です。
馬溪翁の町 -平田集落-
こうした耶馬渓の歴史・文化を熟知し耶馬渓に尽した「平田吉胤」は、大正時代、平田集落に駅や郵便局を建て石橋をかけ水路を引き寺社を復興し耶馬渓の中心集落として作り上げました。「馬溪翁」と称された吉胤は、町づくりの仕上げに二階建ての自宅に三階をのせ景観を見せる場としました。耶馬渓の迎賓館でもあった三階の間の窓は広々と三方に開かれ、窓越しに見る平田氏のものだった山々は座敷の障壁画のようです。
一つになった耶馬渓
古来より文人画人を惹きつけ、あまたの絵が、詩が、文学が生まれた渓谷で、奇岩奇峰に包まれ暮らす人々は、岩から仏、寺院、石橋、庭園・・と優れた作品を生み出し、大地に配していきました。トンネルを掘り、道を開き、観光列車「耶馬渓鉄道」をひき、探勝道を巡らせ、日本一の長さを競う石のアーチ橋を次々と架けることでそれぞれの作品を回遊路で一つにつなぎ、自由に廻れるようにした大正時代の終わり、ついに天下無二の芸術作品「耶馬渓」が完成しました。
中津駅周辺には料亭が建ち並び、翌朝から耶馬渓へ発つ観光客は鱧料理をはじめとした豊前海の魚に舌鼓を打ち、霊泉(温泉)巡りツアーも開催されました。平家の落人が伝えた蕎麦は耶馬渓名物となり、渓谷の茶屋では蕎麦をゆでる湯気が立ち上るようになりました。さらに、昭和初期の豊後森駅開業で新たな耶馬渓の玄関口ができ、玖珠町側からも回遊できるようになりました。
このように耶馬渓には100年前の大正時代の観光客が楽しんだ山水画のような景観、温泉、無数の探勝道がちりばめられています。文人画人が舌鼓を打った川魚や猪鹿料理、巻柿や羅漢寺土産だった栗饅頭を楽しみながら、中津から玖珠へ、玖珠から中津へ。自動車・自転車・自らの足で、大地に描かれた山水絵巻に入り込み、空から谷底から、回遊路を巡りまた次の探勝道へ。時をかけ季節をかえて、次々と場面が展開する耶馬渓遊覧の旅をお楽しみください。
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