旅人たちの足跡残る悠久の石畳道—箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路─STORY #062
ストーリーSTORY
『天下の険』と歌に唄われた箱根山を東西に越える一筋の道、
東海道箱根八里。
江戸時代の大幹線であった箱根八里には、
繁華な往来を支えるために当時の日本で随一の壮大な石畳が敷かれました。
西国大名やオランダ商館長、朝鮮通信使や長崎奉行など、
歴史に名を残す旅人たちの足跡残る街道をひととき辿れば、
宿場町や茶屋、関所や並木、一里塚と、
道沿いに次々と往時のままの情景が立ち現われてきて、
遥か時代を超え、訪れる者を江戸の旅へと誘います。
東海道箱根八里。
江戸時代の大幹線であった箱根八里には、
繁華な往来を支えるために当時の日本で随一の壮大な石畳が敷かれました。
西国大名やオランダ商館長、朝鮮通信使や長崎奉行など、
歴史に名を残す旅人たちの足跡残る街道をひととき辿れば、
宿場町や茶屋、関所や並木、一里塚と、
道沿いに次々と往時のままの情景が立ち現われてきて、
遥か時代を超え、訪れる者を江戸の旅へと誘います。
東海道の名所「箱根八里」
「箱根八里」とは、東海道で小田原宿から箱根宿までの四里(約16キロ)と箱根宿から三島宿までの四里を合わせたものです。江戸時代に整備された五街道の中でも屈指の通行量を誇る東海道は、参勤交代の西国大名や江戸参府のオランダ商館長、朝鮮通信使や長崎奉行など、著名な歴史上の人物が数多く往来したことから、道中にはさまざまな旅人たちのエピソードが残ります。また風光明媚な場所や名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句などの題材にもしばしば取り上げられました。
小田原宿から箱根宿へ、「箱根八里」東坂を辿る
「箱根八里」の起点となる小田原は江戸を発った旅人が初めて目にした華やかな城下町です。小田原城や歌舞伎『外郎売』で知られた老舗のういろうは、輝くような白漆喰の外壁でひときわ存在感を放ち、かまぼこ通りは落ち着いた商家の佇まいをとどめています。
歩みを西に進めると街道は徐々に勾配を増し、やがて三枚橋を渡るといよいよ箱根山です。湯本の街並みを過ぎる頃から、ところどころに苔むした石敷きの道が現れます。江戸時代初期には「脛まで泥につかる悪路」と言われていた箱根峠越えの道を、幕府が石敷きの舗装路に改修しました。峠道の石畳の規模は当時の日本で随一で、通行が容易になった街道には江戸時代を通じて多くの人、モノ、情報が行き交い、沿線にさまざまな往来文化が育まれました。
谷筋の急な上り坂を登っていくといくつもの集落が旅人を待ち受けます。間の村の畑宿は休憩場所として賑わい、旅土産の寄木細工の里としても広く知られていました。現在も軒先には細工物の材料が積まれ、さまざまな種類の天然木を組み合わせた幾何学文様が工房の職人の手によって造り出されていくさまは、まるで手品を見るようです。集落を過ぎてからやがて見えてくる街道の両側に並ぶふたつの小山は一里塚です。一里塚は旅人が距離を知るための目印として築かれ、塚の上には榎や樅、松などが植えられました。
旅人の前に次々と現れるいくつかの坂を越えた先に、江戸時代そのままの藁葺き屋根の茶屋が見えてきます。旅人が旅の英気を養った甘酒茶屋では、囲炉裏端に座って江戸時代からの名物の甘酒を味わうことができます。
東坂の最高地点、八丁平を越えると、湖畔へ下る権現坂からは木々の間に芦ノ湖の湖面が見えてきて、やがて湖畔に朱も鮮やかな箱根神社一の鳥居が現れます。湖の正面に神々しいばかりの富士山を望み、右手には箱根の山々を祀る箱根神社へと続く門前町の家並みが続きます。芦ノ湖を右に見ながら湖畔に沿って進む街道の両脇には、大人3人が手を繋いでも抱えきれないほどの杉の大木約400本が天を衝くように連なって、旅人を冬の風雪から守り、夏には木陰を提供します。冷涼で湿潤な気候を好む杉の並木があるのは東海道ではここだけです。
歩みを西に進めると街道は徐々に勾配を増し、やがて三枚橋を渡るといよいよ箱根山です。湯本の街並みを過ぎる頃から、ところどころに苔むした石敷きの道が現れます。江戸時代初期には「脛まで泥につかる悪路」と言われていた箱根峠越えの道を、幕府が石敷きの舗装路に改修しました。峠道の石畳の規模は当時の日本で随一で、通行が容易になった街道には江戸時代を通じて多くの人、モノ、情報が行き交い、沿線にさまざまな往来文化が育まれました。
谷筋の急な上り坂を登っていくといくつもの集落が旅人を待ち受けます。間の村の畑宿は休憩場所として賑わい、旅土産の寄木細工の里としても広く知られていました。現在も軒先には細工物の材料が積まれ、さまざまな種類の天然木を組み合わせた幾何学文様が工房の職人の手によって造り出されていくさまは、まるで手品を見るようです。集落を過ぎてからやがて見えてくる街道の両側に並ぶふたつの小山は一里塚です。一里塚は旅人が距離を知るための目印として築かれ、塚の上には榎や樅、松などが植えられました。
旅人の前に次々と現れるいくつかの坂を越えた先に、江戸時代そのままの藁葺き屋根の茶屋が見えてきます。旅人が旅の英気を養った甘酒茶屋では、囲炉裏端に座って江戸時代からの名物の甘酒を味わうことができます。
東坂の最高地点、八丁平を越えると、湖畔へ下る権現坂からは木々の間に芦ノ湖の湖面が見えてきて、やがて湖畔に朱も鮮やかな箱根神社一の鳥居が現れます。湖の正面に神々しいばかりの富士山を望み、右手には箱根の山々を祀る箱根神社へと続く門前町の家並みが続きます。芦ノ湖を右に見ながら湖畔に沿って進む街道の両脇には、大人3人が手を繋いでも抱えきれないほどの杉の大木約400本が天を衝くように連なって、旅人を冬の風雪から守り、夏には木陰を提供します。冷涼で湿潤な気候を好む杉の並木があるのは東海道ではここだけです。
左上:石敷きの道/右上:甘酒茶屋/左下:芦ノ湖と富士山/右下:箱根旧街道(杉並木)
東と西の分岐点、箱根宿
杉並木を抜けると、やがて周りに頑丈な木の柵を巡らせて、周囲を威圧するかのような厳めしい造りの建物が現れます。箱根関所です。江戸側と京側のふたつの出入り口を備えた箱根の関は旅人を監視し、とりわけ『出女』と呼ばれる江戸から西国に向かう女性は厳しく取り調べられました。関所から箱根宿を過ぎてさらに石畳の坂道を登るとやがて箱根峠に至ります。
箱根峠から三島宿へ、「箱根八里」西坂を辿る
標高845m、箱根峠の最高地点を越えると、街道は尾根道の下り坂に一変します。やがて街道の両側に、巨大なワッフル状の独特の堀を持つ山中城跡が見えてきます。山中城跡を過ぎたあたりからは一気に眺望が開け、なかでも富士見平は富士山の眺望地点として有名で、江戸時代に多くの絵が描かれ今も同じ風景を見ることができます。江戸時代の浮世絵師も気づかなかったという『左富士』もあって、東海道の稀少な景観のひとつです。
東海道とともに開かれた街道沿いの新田集落は茶屋集落として栄え、副業の畑作の収穫物で旅人に料理がふるまわれました。うっすらと雪化粧した富士山をバックに、大根を干す情景はこの地の初冬の風物詩になっています。
さらに歩みを進めて道の傾斜が緩やかになったあたりから、街道の両側に約1kmにわたって松並木が続きます。江戸時代以降、守り続けられた360本あまりの西坂の松並木と錦田の一里塚は、東坂の杉並木や畑宿の一里塚と好対照を成しています。
大場川を渡ると、やがて三嶋大社の門前町、東海道や下田街道の宿場町として成立した三島宿です。間口が狭く奥行きのある宿場町ならではの構造を残す街並みを歩くと、鰻を焼く香ばしい匂いがあたりに漂ってきます。鰻を三嶋大社の神の使いとしていた三島宿の人々も、江戸末期、西国からの旅人たちがおおいに食したことで鰻の美味しさに開眼し、やがて、鰻料理は三島を代表する名物料理になりました。
「箱根八里」の魅力は、はるか江戸の昔の街道の有り様が残っていることと、同じ道中にありながらも深山幽谷の東坂と富士を望む眺望が広がる西坂とで大きく風景が変わるところにあります。ひととき往時の旅人になって苔むした石畳を辿れば、宿場や茶屋、関所や並木、一里塚などが次々と目の前に現れてきて、江戸時代そのままの「『箱根八里』旅」へと誘います。
東海道とともに開かれた街道沿いの新田集落は茶屋集落として栄え、副業の畑作の収穫物で旅人に料理がふるまわれました。うっすらと雪化粧した富士山をバックに、大根を干す情景はこの地の初冬の風物詩になっています。
さらに歩みを進めて道の傾斜が緩やかになったあたりから、街道の両側に約1kmにわたって松並木が続きます。江戸時代以降、守り続けられた360本あまりの西坂の松並木と錦田の一里塚は、東坂の杉並木や畑宿の一里塚と好対照を成しています。
大場川を渡ると、やがて三嶋大社の門前町、東海道や下田街道の宿場町として成立した三島宿です。間口が狭く奥行きのある宿場町ならではの構造を残す街並みを歩くと、鰻を焼く香ばしい匂いがあたりに漂ってきます。鰻を三嶋大社の神の使いとしていた三島宿の人々も、江戸末期、西国からの旅人たちがおおいに食したことで鰻の美味しさに開眼し、やがて、鰻料理は三島を代表する名物料理になりました。
「箱根八里」の魅力は、はるか江戸の昔の街道の有り様が残っていることと、同じ道中にありながらも深山幽谷の東坂と富士を望む眺望が広がる西坂とで大きく風景が変わるところにあります。ひととき往時の旅人になって苔むした石畳を辿れば、宿場や茶屋、関所や並木、一里塚などが次々と目の前に現れてきて、江戸時代そのままの「『箱根八里』旅」へと誘います。
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