「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま〜古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語〜STORY #064
ストーリーSTORY
この地には鬼ノ城と呼ばれる古代山城や
巨大墓に立ち並ぶ巨石などの遺跡が現存する。
これら遺跡の特徴から
吉備津彦命が温羅と呼ばれた鬼を退治する伝説の舞台となった。
絶壁にそびえる古代山城は、
その名の通り温羅の居城とされ、巨石は命の楯となった。
勝利した命は巨大神殿に祀られ、
敗れた温羅の首はその側に埋められた。
鬼退治伝説は、古代吉備の繁栄と屈服の歴史を背景とし、
桃太郎伝説の原型になったとされ、
吉備の多様な遺産は今も訪れる人々を神秘的な物語へと誘ってくれる。
温羅(鬼)退治の伝説
鬼城山から南の平野に降りると、弥生時代に造営された首長の墳丘墓が在り、その大きさは同時期では最大級である。また、その頂には木棺を取り囲むように5つの巨石が立てられれている。その風景は、まるで古代遺跡のストーンサークルを思わせる不思議な巨石列であり、あたかも戦いのときに使った巨大な楯を連想させるものである。この墳丘墓が在る丘は「楯築遺跡」と呼ばれ、伝説の中では温羅が放った矢を防ぐためのものとされた。
「鬼」と「戦い」をイメージさせるこの地には、まさしく鬼退治「吉備津彦命による温羅退治」の伝説が残る。
その昔、岡山(吉備)平野が吉備の児島に囲まれた内海だったころ、人の身の丈をはるかに超える温羅と呼ばれる鬼は、平野を見下ろす山の上に城を築き、村人を襲い悪事を重ねていた。大和の王から温羅退治の命令を受けた吉備津彦命は、吉備の地に降り立ち、吉備の中山に陣を構え、その西の小高い丘の頂には温羅の矢を防ぐ巨石の楯を築いた。弓の名手であった命は、岩に矢を置き温羅に向かって矢を放つ。温羅も応戦し城から矢を放つが、互いに放った矢は何度も喰い合って落ちていった。しかし、命が力を込めて放った矢は、ついに温羅の左目を射抜く。温羅の目からは血が吹き出し、川のように流れたという。たまらず雉に化けて逃げる温羅を、鷹になった命が追う。温羅は雉から鯉に化けて血の流れる川に逃げたが、命は鷹から鵜となり、鯉を喰い上げ、見事に温羅を退治し、その首を白山神社の首塚にさらした。
これら伝説の舞台(上記赤色下線部分)は、それぞれ「鬼城山」、「吉備の中山」、「楯築遺跡」、「矢置岩」、「矢喰宮」、「血吸川」、「鯉喰神社」、「白山神社の首塚」として、現在も語り継がれている。また、温羅が生け贄をゆでた鬼の釜、命が空を移動するために使った乗り物など、伝説ゆかりの道具もこの地に残っている。
温羅を退治した吉備津彦命は神として祀られた。吉備津神社と吉備津彦神社は、命が陣を構えその墓がある吉備の中山の麓にあり、吉備津神社には、鳥が翼を広げる姿に見える屋根の巨大本殿をはじめ、約400mもある長大な回廊や650年以上前の門などの建造物が現存し、本殿の北東部の艮御崎宮では温羅も祀られ、温羅の顔を思わせる鬼面も伝わっている。
過去に災いをもたらしていた温羅であったが、やがてこの地の吉凶を告げる使いとなった。命がはねた温羅の首は、夜になると不気味なうなり声を上げたため、命は御釜殿の釜の下深くに埋めたが、それでもうなり声はおさまらなかった。ある日、命の夢に温羅が現れ、自分の妻がこの釜を使って米を炊くようにすれば、自身が命の使いとなり釜の音で世の吉凶を占うと告げ、命は温羅の言うとおりにしたという。
「ヴォーン、ヴォーン」とまるで鬼がうなっているように聞こえる釜の音。今も御釜殿では、この音で願いが叶うかを占う「鳴釜神事」が執り行われている。また、この吉備津神社では、毎年1月3日、吉備津彦命が温羅との戦いに矢を置いたとされる「矢置岩」の前で空に矢を放つ「矢立の神事」も行われ、初詣の参拝客の目を楽しませている。
左:鬼城山の絶壁上に築かれた石垣(総社市)/中:吉凶を占う鳴釜神事/右:巨石が立ち並ぶ楯築遺跡(倉敷市)
伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力-巨大な墓-
吉備勢力の強大さを物語るのは、かつての王たちの墓である。温羅伝説にも登場する約1800年前に築かれた楯築遺跡は、同時期の墓としては日本最大級であり、これに続く時期の鯉喰神社一帯の墓も巨大である。また、墓での祭りに使用された円筒形の土器は、この地方で使われ始めたもので、のちに古墳で行われた祭りの道具である埴輪の原型となった。さらに、5世紀代の造山古墳・作山古墳・両宮山古墳は、近畿の天皇陵古墳に匹敵する規模を誇り、小高い山と見間違うほどである。自由に登ることができるため、その巨大さを体感でき、あたかも祭壇のような段造りの様子や水濠で囲まれた形も見ることができる。
今も残る巨大な墓は、古くから文化が花開き、強大な勢力が存在していたこの地の繁栄を感じさせてくれる。
左:国内第4位の巨大古墳 造山古墳(岡山市)/右:水で取り囲まれた両宮山古墳(赤磐市)
桃太郎の原型
桃太郎の名の由来となった桃は、古来より魔よけの道具として使われた。吉備の地は、晴天の多い温暖な気候に恵まれ、古くから桃が栽培されてきた。桃太郎が犬、猿、雉を従えるために与えた「きびだんご」の原料の黍は、吉備の地名に由来するともいわれ、今では岡山土産の代表となっている。また、桃太郎の家来の犬、猿、雉は、「犬飼」の名前などで、今もこの地に残っている。このような岡山の気候、風土、歴史と温羅退治の伝説とが密接に結びつき、桃太郎はこの地で生まれた。
遠く瀬戸内海まで見渡せる鬼城山の絶壁から眼下を望めば、古くから護り伝えられた巨大古墳などの多様な遺産と、ほかでは見ることのできない吉備津彦命と温羅の戦いの世界が広がり、吉備の地を訪れる人々を神秘的な物語へと誘ってくれる。
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ピックアップコラムCOLUMN
日本遺産に関するエピソードや
トリビアをお届けします。
御朱印ですか?
いいえ、御墳印(ごふんいん)です
日本遺産「「桃太郎伝説」の生まれたまちおかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」のストーリーは、温羅(鬼)退治の伝説、伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力-巨大な墓-、桃太郎の原型の3つのパートで構成されますが、今回は2つ目のパートに関する構成文化財を紹介します。
ぜひ、吉備勢力の強大さを体感しながら、古墳巡りをしてはいかがでしょうか。
また、日本遺産「桃太郎伝説の生まれたまちおかやま」推進協議会では、令和4年度から構成文化財である7つの古墳それぞれの特徴を捉えた御墳印を制作し設置しています。
無料の専用台紙を配布しているので、古墳巡りをした記念に集めてください。
まずは、2世紀に築かれた楯築遺跡。桃太郎伝説にも登場する楯築遺跡は、古墳時代より前の弥生時代最大の王墓。
中心に直径約40mの円丘部があり、その北東と南西に突出部を持つ形で、前方後円墳のルーツの形と言われています。
また、楯築遺跡からの出土している特殊器台は埴輪の起源と言われています。
5世紀前半に築かれた全長350mの造山古墳は、同時期の大王墓(上石津ミサンザイ古墳)とほぼ同じ大きさで、全国第4位の規模。
自由に立ち入れる古墳としては全国1位の大きさで、春には墳丘上に桜が咲くため、お花見ができます。
5世紀は、造山古墳以降、作山古墳、両宮山古墳と引き続き築かれました。
造山古墳よりも縮小しますが、いずれも大王墓に次ぐ規模でした。
作山古墳は、墳長約286mの前方後円墳で岡山県内では2番目に大きく、古代吉備の大首長の墓と言われています。
全国第10位の大きさで、造山古墳の次に築かれたものとみられています。
桃太郎伝説で温羅の居城とされる鬼ノ城から見下ろすことができます。
両宮山古墳は、岡山県内では3番目の大きさを誇る前方後円墳。
墳長は206mで二重の周濠と陪塚を備えた畿内の大王墓に準じた造りとなっています。
水を湛える周濠があるのは、岡山県内唯一で、周濠がめぐっている古墳で登ることができる古墳は全国的に見ても珍しいものです。
【御墳印設置場所】
[楯築遺跡]岡山市造山古墳ビジターセンター
住所 岡山県岡山市北区新庄下789
[造山古墳]岡山市造山古墳ビジターセンター
住所 岡山県岡山市北区新庄下789
[作山古墳]吉備路観光案内センター
住所 岡山県総社市三須825-1 サンロード吉備路内
[両宮山古墳]赤磐市観光案内所兼ふれあい市場「稚媛の里」
住所 岡山県赤磐市馬屋561-1
[こうもり塚古墳]国分寺観光案内所(くろひめ亭)
住所 岡山県総社市上林1046
[牟佐大塚古墳]赤磐市観光案内所兼ふれあい市場「稚媛の里」
住所 岡山県赤磐市馬屋561-1
[箭田大塚古墳]倉敷市たけのこ茶屋
住所 岡山県倉敷市真備町箭田3652
桃太郎ゆかりの地域は、日本全国にありますが、なかでも岡山は日本遺産に認定されるほど特徴的で、その核心部分は鬼退治。
岡山には、古代から鬼退治の伝説があり、今でもそれにゆかりの旧跡や地名、神社などが多くあります。
ぜひ現地を訪れて、日本遺産のストーリーを体感してください。