薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~STORY #082

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薩摩の武士が生きた町 ~武家屋敷群「麓」を歩く~ 薩摩の武士が生きた町 ~武家屋敷群「麓」を歩く~
薩摩の武士が生きた町 ~武家屋敷群「麓」を歩く~ 薩摩の武士が生きた町 ~武家屋敷群「麓」を歩く~
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ストーリーSTORY

勇猛果敢な薩摩の武士を育んだ地,鹿児島。
そこには,本城の鹿児島城跡や,県内各地の山城跡の周辺に配置された麓と呼ばれる外城の武家屋敷群が数多く残っています。
麓は,防御に適した場所に作られ,門と玄関の間に生垣を配置する等,まるで城の中のように敵に備えた構造を持っていました。
そこでは武士達が,心身を鍛え,農耕に従事し,平和な世にありながら武芸の鍛錬に励みました。
鹿児島城跡や麓を歩けば,薩摩の武士達の往時の生き様が見えてきます。

【鹿児島県の中世山城跡】

薩摩の武士というと,勇猛果敢なことで知られており,そのふるさとである鹿児島は,本城の鹿児島城や,中世以来の山城(やまじろ)の跡と,その周辺に配置された外城の武家屋敷群とが江戸時代を通じて残り,今も県内各地に数多く残っている全国で唯一の地域です。

鹿児島の県土は,遠い昔に今の鹿児島湾から噴出した火砕流が堆積した,数10mから時には100mを超える厚さのシラスの台地から成っています。このため広い平野部は少なく,薩摩藩内の山城は,このシラス台地を利用して,その端に当たる場所に築かれています。

清色城跡(入来麓)の堀切 清色城跡(入来麓)の堀切

山城は戦国時代までは日本中にありましたが,江戸幕府の命令で破壊され,一つの藩に一つの城という制度に変わりました。ところが薩摩藩では,破壊すると田畑に土が流れてくると幕府に言い訳し,山城を壊さなかったため,15mを超えるような空堀に囲まれて,武士達が戦時に籠る曲輪などがいくつも集まっている山城の跡が,県内各地に数多く残っています。
実際は,いざという時の拠点として残していたとも言われ,山城では,鉄砲や弓などの軍事訓練が行われることもありました。

【薩摩藩独自の防御システム「外城制度」と麓】

中世以来の守護大名であり,戦国時代末には九州全土を平定する勢いだった薩摩の島津氏は,豊臣秀吉の九州平定で敗れ,領地を大幅に削減されましたが,武士の数は減らしませんでした。このため,薩摩藩は他の藩より武士の割合が高くなり,全人口の4分の1程度を武士が占めていました。そこで,他の藩のように,本城である鹿児島城の城下に全ての武士を集住させることができず,独自の外城制度として,各地の山城の周辺に「麓」(武家屋敷群)をつくり,数十人から時には数千人を配置することにしました。

外城制度の要,鹿児島城跡 外城制度の要,鹿児島城跡

こうして,各地に武士団の集住地が存在する,薩摩藩独自の制度が生まれたのです。麓は,シラス台地の端にある山城と近くを流れる川に挟まれた,防御に適した場所に多く作られ,その数は,江戸時代末の薩摩藩領内には120か所もありました。

【麓内の構造と特徴】

麓の中心には,「仮屋」と呼ばれた役所や,私領の場合は領主の屋敷がありました。その周囲を「馬場」と呼ばれる何本かの広い道と,人が歩ける程度の狭い道とで町割され,その間に武家屋敷がそれぞれ隣接するように配置されました。

馬場は,メインストリートであると同時に,武士達が馬術の鍛錬をする場所でした。道の両側の武家屋敷は,近くを流れる川から持ってきた玉石等で作られた石垣と,その上に設けられた高い生垣に囲まれており,屋敷内から攻撃しやすい造りです。

屋敷内に入ろうとすると,門と玄関の間にも石垣や生垣があり,まっすぐには進めません。逆に主の部屋の縁側から顔を出すと,入口まで見通せて来訪者を確認できます。

石垣,生垣,武家門で構成される武家通り(出水麓) 石垣,生垣,武家門で構成される武家通り(出水麓)

これらは,全て侵入者に対する備えであり,麓はまるで,城の中のように敵に備えて作られていることがわかります。そのような中でも庭園の多くは,付近の山城などを借景として美しく造られており,山城と麓の一体化した景観を象徴しています。

【陸上・海上交通の要衝】

国境にある出水麓には3,000人近い武士が配置され,近くの野間の関では,厳しい検問が行われました。鹿児島弁が他の地方の言葉と著しく異なることを利用して,幕府の隠密を見つけ出していたとも言われています。

交通の要衝にあった里麓 交通の要衝にあった里麓

薩摩藩は,関ケ原の戦いでは敗れた西軍に属し,戦いのあと,藩内に臨戦態勢を敷きながら,幕府と交渉し,ようやく領地を安堵されたことから,幕府や隣接する藩への警戒感が強い藩だったのです。海上交通の要衝にある手打麓や志布志麓などには,交易船を取り締まる津口番所がありました。

【麓の武士達の暮らし】

麓の子ども達は,郷中教育といって,集落ごとに年長者が年少者を教える集団教育の方法で育てられました。

その教材として,戦国時代に加世田麓を治めた島津忠良が作った日新公いろは歌(古の道を聞きても唱へても我が行にせずばかひなし)などの人生訓が使われました。その精神は,今の鹿児島の教育にも受け継がれています。郷中教育では,相撲や剣術(示現流)など体を鍛える修練や詮議という解決策を皆で考えあう訓練が重んじられていました。

幕府や他の藩の武士達が,平和な江戸時代に次第に官僚化し武芸を疎かにしていく一方で,麓の武士達は,地方行政を担う傍ら武芸の鍛錬にはげみ,他の麓との武芸の対抗戦を行うことで,更に磨きをかけました。

禄高が低い武士達の多くは農耕に従事し生活しており,また,用水路や石橋の築造を行うこともあったため,普段から体を鍛えることになり,麓の武士達は,日本最強といわれる武士団となっていきました。

勇壮な士踊(加世田麓) 勇壮な士踊(加世田麓)

幕末期,薩摩藩の軍事力の土台となったのが,麓の武士達でした。彼らが出陣する際には,普段,一緒に訓練している麓を中心とした「郷(外城)」という地区を単位とした部隊編成が行われています。
薩摩藩の風土が生んだ麓,その麓で鍛錬していた藩内各地の武士達の活躍が,明治維新を成し遂げるための大きな力となり,我が国を近代化へと突き動かしていくのです。

このような薩摩の武士達も,豚骨料理やつけあげを肴に焼酎で「ダレヤメ(疲れを取るための晩酌の意)」をしたり,温泉で鍛えた体を癒したりしました。

武士ならではの勇壮な祭りや農耕に従事した武士や領民を慰めるための祭りが伝えられ,武士達の信仰を集めた麓周辺の社寺等で奉納されています。農耕だけで生活できない武士が作った素朴な人形なども伝えられており,武士達の人間味あふれる側面を垣間見ることができます。

中世山城跡と近世の武家屋敷群がコンパクトにまとまった入来麓 中世山城跡と近世の武家屋敷群がコンパクトにまとまった入来麓

鹿児島には,最強といわれる武士団を育んできた山城と麓を中心とした歴史的景観が,現在も大切に残されています。中世の山城跡と近世の武家屋敷群がコンパクトに体感できる独特な町並みを歩けば,どこを訪れても,往時の武士達の生き様をしのぶことができます。「ゆくさ,おじゃったもした (ようこそ,おいでくださいました) 鹿児島」

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