砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~STORY #103
ストーリーSTORY
室町時代末頃から江戸時代、西洋や中国との貿易で日本に流入した砂糖は、日本の人々の食生活に大きな影響を与えた。なかでも、海外貿易の窓口であった長崎と小倉を繋ぐ長崎街道沿いの地域には、砂糖や外国由来の菓子が多く流入し、独特の食文化が花開いた。現在でも、宿場町をはじめ、当時の長崎街道を偲ばせる景観とともに、個性豊かな菓子が残されている。
輸入砂糖や菓子と関わりの深い長崎街道「シュガーロード」を辿ると、長崎街道の歴史だけでなく、400年以上もの時をかけて発展し続ける砂糖や菓子の文化に触れることができる。
輸入砂糖や菓子と関わりの深い長崎街道「シュガーロード」を辿ると、長崎街道の歴史だけでなく、400年以上もの時をかけて発展し続ける砂糖や菓子の文化に触れることができる。
目次
【長崎港へ新たな文化・砂糖文化の伝来】
1571年、ポルトガル船との貿易のために長崎港が開港され、日本人の食文化に影響を与えることとなる、新しい調理法や香辛料とともに砂糖がもたらされるようになります。その後、現代にかけて北部九州(福岡、佐賀、長崎の3県)には西洋(ポルトガルやオランダ)や中国の影響を受けた、他の地域では見られない独自の菓子文化が花開いていくのです。
【長崎街道 ~九州の大動脈~】
小倉(こくら)と長崎を繋ぐ全長57里(228㎞)、25宿の長崎街道は、山を越える道程が多い、険しい街道です。
しかし長崎奉行や九州の大名・武士、商人や旅人たち、江戸参府へ赴(おもむ)くオランダ商館長などさまざまな人々で賑わい、また西洋や中国からもたらされた珍奇な文物(織物や書籍、動物等)を日本各地へ運ぶ輸送経路となった、いわばヒトとモノが行き交う九州の大動脈でした。
現在の長崎街道にも、宿場のなごりを残す地区があります。なかでも塩田津(しおたつ)には、江戸時代には様々な問屋などとともに砂糖問屋や菓子屋が軒を連ねた、長崎街道と砂糖やお菓子とのつながりの深さを実感できる地区で、今でも長崎街道に面した家並みや、家屋から旧塩田川へ下る階段から、江戸時代の陸海の要衝としての活気が偲(しの)ばれます。
また、長崎街道沿いの菓子の中には中国に起源をもつものがありますが、長崎街道周辺に残る中国に縁の深い黄檗(おうばく)宗寺院は、中国人や藩の御用菓子師から砂糖や菓子の寄進(きしん)を受けていました。福建(ふっけん)省出身者が砂糖を寄進していた崇福寺は、朱色を基調とした異国風の荘厳な佇(たたず)まいを今も残しています。
このように砂糖やお菓子とかかわりの深い長崎街道沿いの地域は、近年、絹の道「シルクロード」になぞらえて、砂糖の道「シュガーロード」という愛称を得て、伝統の味と技術を守りながら、今日もなお発展を続けています。
しかし長崎奉行や九州の大名・武士、商人や旅人たち、江戸参府へ赴(おもむ)くオランダ商館長などさまざまな人々で賑わい、また西洋や中国からもたらされた珍奇な文物(織物や書籍、動物等)を日本各地へ運ぶ輸送経路となった、いわばヒトとモノが行き交う九州の大動脈でした。
現在の長崎街道にも、宿場のなごりを残す地区があります。なかでも塩田津(しおたつ)には、江戸時代には様々な問屋などとともに砂糖問屋や菓子屋が軒を連ねた、長崎街道と砂糖やお菓子とのつながりの深さを実感できる地区で、今でも長崎街道に面した家並みや、家屋から旧塩田川へ下る階段から、江戸時代の陸海の要衝としての活気が偲(しの)ばれます。
また、長崎街道沿いの菓子の中には中国に起源をもつものがありますが、長崎街道周辺に残る中国に縁の深い黄檗(おうばく)宗寺院は、中国人や藩の御用菓子師から砂糖や菓子の寄進(きしん)を受けていました。福建(ふっけん)省出身者が砂糖を寄進していた崇福寺は、朱色を基調とした異国風の荘厳な佇(たたず)まいを今も残しています。
このように砂糖やお菓子とかかわりの深い長崎街道沿いの地域は、近年、絹の道「シルクロード」になぞらえて、砂糖の道「シュガーロード」という愛称を得て、伝統の味と技術を守りながら、今日もなお発展を続けています。
【日本人の生活を変えた砂糖 】
日本と砂糖の出会いは奈良時代に遡(さかのぼ)りますが、砂糖はそのころ、ごく少量しか手に入らず、限られた人々しか味わえない高級品でした。
西洋や中国から砂糖や甘く珍しいお菓子が豊富に持ち込まれたのは室町時代末頃です。砂糖は、日本にやってきた西洋・中国の貿易船にとってはバラスト(底荷)としても活用されていました。餅(もち)や饅頭(まんじゅう)に使われた小豆(あずき)餡(あん)も、以前は塩で味をつけていましたが、砂糖を使った甘いものが主流になったのも江戸時代です。また茶道の発展や喫茶文化の普及により、お茶請けとしてのお菓子も多様化し、多くの人々に浸透しました。18世紀初頭には、砂糖の輸入量が年間2000トンを超(こ)え、長崎の出島(でじま)や新地(しんち)には砂糖の専用蔵が設(もう)けられました。現在、出島和蘭商館跡には砂糖蔵が復元されており、当時の貿易の様子に思いをはせることができます。
西洋や中国から砂糖や甘く珍しいお菓子が豊富に持ち込まれたのは室町時代末頃です。砂糖は、日本にやってきた西洋・中国の貿易船にとってはバラスト(底荷)としても活用されていました。餅(もち)や饅頭(まんじゅう)に使われた小豆(あずき)餡(あん)も、以前は塩で味をつけていましたが、砂糖を使った甘いものが主流になったのも江戸時代です。また茶道の発展や喫茶文化の普及により、お茶請けとしてのお菓子も多様化し、多くの人々に浸透しました。18世紀初頭には、砂糖の輸入量が年間2000トンを超(こ)え、長崎の出島(でじま)や新地(しんち)には砂糖の専用蔵が設(もう)けられました。現在、出島和蘭商館跡には砂糖蔵が復元されており、当時の貿易の様子に思いをはせることができます。
【砂糖の普及で生まれた長崎街道沿いの個性豊かな菓子と食文化】
砂糖の普及以来、長崎街道沿いでは西洋・中国に起源を持つ多彩なお菓子が作られ続けています。砂糖・卵・小麦粉を使ったお菓子、西洋の製菓技術をヒントに引釜(ひきがま)で焼き上げたお菓子、中国人から製法を習った米と砂糖を合わせたお菓子など、餅や飴(あめ)などの、それまで日本で一般的だったお菓子とは一味異なります。
長崎街道沿いでこれら外国由来のお菓子が盛んに作られたのは、各地の菓子職人が長崎へ直接製法を学びに訪れることができたからです。江戸時代に長崎街道沿いの地域を治(おさ)めた黒田氏・鍋島氏藩領には、砂糖や外国由来のお菓子の文化が色濃く残されています。両氏は長崎警備を務めており、そのため長崎で砂糖を優先的に買い付けることができたと考えられます。この地域では、明治時代以降も、南蛮(なんばん)菓子や唐菓子の技法をもとに、カステラ饅頭や瓦煎餅(せんべい)などの新しいお菓子が誕生し、全国に普及しました。
また砂糖が、在来の文化や風土と結びついて特徴的な食文化を形成した例もあります。肥前の肥沃な穀倉地帯では、おこしや丸ぼうろなど、米麦を用いた菓子が盛んに作られました。また、清らかな水や良質な小豆やいんげん豆に恵まれた佐賀県・小城で作られる羊羹(ようかん)。この地は、茶道文化が発達していた地域で、お茶請けとして受け入れやすい環境にあったため、多くの人に浸透していきました。村岡総本舗は小城羊羹(ようかん)の老舗の一つで、羊羹(ようかん)店舗に併設する羊羹(ようかん)資料館では、羊羹(ようかん)の原料や製造道具等の資料が展示されています。
砂糖をエネルギー源として、発展していった食文化の例もあります。明治初期から炭坑で栄えた筑豊(福岡県・飯塚)では、景気にのり、佐賀の「松月堂」が進出。千鳥屋を開店し、千鳥饅頭を販売しました。甘い菓子は肉体労働が続く炭鉱で働く人たちのエネルギー源として好まれました。大正末期の小倉(福岡県・北九州)では、八幡製鉄所の従業員の栄養補助食品としてポケットサイズのくろがね羊羹(ようかん)が生まれ、菓子産業が隆盛していきました。まさに「砂糖」がもたらした大きな功績の一つと言えます。
さらに慶弔(けいちょう)事や来客のもてなし、普段の料理にも砂糖が用いられるのも特徴です。砂糖はもてなしや贅沢さの表現、防腐や保湿など多様な目的で使われました。砂糖を得やすい長崎近郊の地域だからこそ、お菓子や料理に砂糖がふんだんに用いられたのでしょう。長崎くんちの庭見世(祭の前に、本番で使用する道具や衣装、祝いの品を披露する場)の装飾に、ぬくめ細工は欠かせません。
長崎街道沿いでこれら外国由来のお菓子が盛んに作られたのは、各地の菓子職人が長崎へ直接製法を学びに訪れることができたからです。江戸時代に長崎街道沿いの地域を治(おさ)めた黒田氏・鍋島氏藩領には、砂糖や外国由来のお菓子の文化が色濃く残されています。両氏は長崎警備を務めており、そのため長崎で砂糖を優先的に買い付けることができたと考えられます。この地域では、明治時代以降も、南蛮(なんばん)菓子や唐菓子の技法をもとに、カステラ饅頭や瓦煎餅(せんべい)などの新しいお菓子が誕生し、全国に普及しました。
また砂糖が、在来の文化や風土と結びついて特徴的な食文化を形成した例もあります。肥前の肥沃な穀倉地帯では、おこしや丸ぼうろなど、米麦を用いた菓子が盛んに作られました。また、清らかな水や良質な小豆やいんげん豆に恵まれた佐賀県・小城で作られる羊羹(ようかん)。この地は、茶道文化が発達していた地域で、お茶請けとして受け入れやすい環境にあったため、多くの人に浸透していきました。村岡総本舗は小城羊羹(ようかん)の老舗の一つで、羊羹(ようかん)店舗に併設する羊羹(ようかん)資料館では、羊羹(ようかん)の原料や製造道具等の資料が展示されています。
砂糖をエネルギー源として、発展していった食文化の例もあります。明治初期から炭坑で栄えた筑豊(福岡県・飯塚)では、景気にのり、佐賀の「松月堂」が進出。千鳥屋を開店し、千鳥饅頭を販売しました。甘い菓子は肉体労働が続く炭鉱で働く人たちのエネルギー源として好まれました。大正末期の小倉(福岡県・北九州)では、八幡製鉄所の従業員の栄養補助食品としてポケットサイズのくろがね羊羹(ようかん)が生まれ、菓子産業が隆盛していきました。まさに「砂糖」がもたらした大きな功績の一つと言えます。
さらに慶弔(けいちょう)事や来客のもてなし、普段の料理にも砂糖が用いられるのも特徴です。砂糖はもてなしや贅沢さの表現、防腐や保湿など多様な目的で使われました。砂糖を得やすい長崎近郊の地域だからこそ、お菓子や料理に砂糖がふんだんに用いられたのでしょう。長崎くんちの庭見世(祭の前に、本番で使用する道具や衣装、祝いの品を披露する場)の装飾に、ぬくめ細工は欠かせません。
左上:丸ぼうろ/右上:村岡総本舗羊羹資料館/ 左下:千鳥饅頭/右下:くろがね羊羹
【今なお味わえる長崎街道沿いの砂糖文化】
砂糖と日本の人々の本格的な出会いから、400年以上もの時が経過しましたが、長崎街道沿いの地域では、今でも砂糖文化に触れることができます。手(て)延(の)べ製法で作られるおこし、職人が14日かけて窯煎(かまい)りする金平糖(こんぺいとう)、手作業で切り分けられる羊羹(ようかん)、焼きたてのカステラや、丸ぼうろなどの甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら店頭でお菓子を選ぶことができるのは、この土地ならではです。
また、お菓子作りの体験や、職人の技術を目の当たりにするなど、長崎街道「シュガーロード」を実際に訪れ、歴史に触れて、得られる経験はかけがえのないものになるでしょう。帰途につき、旅先での体験を思い返しながら自ら足を運んで選んだ菓子を食すと、きっと一味違った味わいがあるでしょう。
また、お菓子作りの体験や、職人の技術を目の当たりにするなど、長崎街道「シュガーロード」を実際に訪れ、歴史に触れて、得られる経験はかけがえのないものになるでしょう。帰途につき、旅先での体験を思い返しながら自ら足を運んで選んだ菓子を食すと、きっと一味違った味わいがあるでしょう。
左:おこしの手延べ製造/右上:お菓子づくり体験/右下:金平糖の窯煎
【砂糖文化を広めた長崎街道 関連情報サイト】 |
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