八代を創造(たがや)した石工たちの軌跡~石工の郷に息づく石造りのレガシー~STORY #104
ストーリーSTORY
石工たちは、八代に広大な平野と豊かな実りをもたらした「干拓事業」や、地域の交通を支えた「めがね橋」の架設などに携わり、八代の発展と人々の生活基盤づくりに長きにわたって貢献する中で、己の技を磨き上げ、名もなき石工から名石工へと成長していったのです。
彼らが築いた堅牢な干拓樋門、川面に美しいアーチを描くめがね橋、見事な棚田の石垣などの石造りのレガシーは百余年たった今も、まちの景観や人々の暮らしの中に生き続けており、訪れる人々を「石工の郷」へと誘ってくれます。
■育まれてきた「石工の郷」の風土
左:八代産石灰岩で築かれた「八代城」の石垣/右:石灰岩の島「水島」
■干拓によってもたらされた平野 -干拓事業と石工の活躍-
特に、文政元年(1818)~2年(1819)に行われた四百町新地、文政4年(1821)に行われた七百町新地の造成事業で石工たちは大いに活躍しました。長年の経験によって培われた技術を活かし、巨石を用いて強固に築かれた「大鞘樋門」に代表される干拓樋門、干拓地を潤す「用水路」、橋の建設などに大きく貢献しました。また、備前から導入した干拓技術の定着にも寄与し、八代の干拓を長きにわたって支える技術者集団として、多岐にわたって活躍しました。
その中でも、石工「三五郎」は、七百町新地造成の際に、石工たちの総監督に任命され、多くの石工たちを率いて干拓事業の成功に大きく貢献しました。その功績が高く評価された三五郎は、職人が功績によって苗字を許されることが極めて稀であった当時、特例で「岩永」の苗字を名乗ることが認められました。
その名声は、各地の為政者の耳にも届き、薩摩藩に招かれ大型のめがね橋の架橋をおこなうなど、活躍の場を更に広げていくことになりました。
広大な干潟を開拓した干拓事業を契機として、技術を磨き上げた「名もなき石工」たちは「名石工」として、歴史の表舞台に躍り出ていくことになったのです。
左上:石工たちが築いた「大鞘樋門(殻樋)」/ 右上:石工「岩永三五郎」の墓 左下:岩永三五郎架設と伝わる「鑑内橋」/中央下:干拓によってもたらされた「八代平野」/右下:干拓地に残る「旧郡築新地甲号樋門」
■石工たちの技の結晶 -めがね橋-
八代では、江戸時代末から昭和初期にかけて、地域住民が架橋費用を工面し、住民主体で「めがね橋」が架けられていきます。そのため、石工たちは実用性に重点をおき、地域の人々の要望や予算に合わせ、無駄を出来るだけ省いためがね橋の架橋を行ってきました。
八代で架けられためがね橋の多くは、橋の強度を大きく左右するアーチ部分は丁寧な加工を施した石材を使用する一方、壁石には各地で簡単に手に入る自然石を使用しており、できる限り費用を抑えながらも、丈夫な橋を架ける工夫が施されています。
めがね橋の架設を手掛ける中で、石工たちは石材加工技術だけでなく、依頼主の要望に応じた細やかな設計、人脈を駆使した人材・資材確保、資金運営までをトータルで行う優れた経営技術を磨き上げ、日本最高峰のめがね橋架橋技術を有する技術者集団へと成長していきました。
明治以降、風水害に強い石造建築物の需要が高まる時代の中で、安定した物流を支える石橋、山間部の農業を支える水路橋など、日本各地で石工たちの技術が必要とされるようになりました。そのため、「橋本勘五郎」に代表される優れた石工たちは、急速に近代化する首都東京の交通を支えた「神田万世橋」(東京都)、熊本の山間部の農業を支えた日本最大級の石造水路橋「通潤橋」(熊本県)をはじめ、全国各地で多くのめがね橋の架橋を成功に導くなど、活躍の場を日本全国にまで広げ、日本の近代化の足元を支えることになりました。また、かつて全国で2000基以上架けられためがね橋の、実に約4分の1の架橋に八代の石工が携わったとも伝えられるほど、その名声は全国に轟くことになり、多くの「名石工」を輩出した八代は「石工の郷」と呼ばれるようになったのです。
その八代では、江戸時代末から昭和の始めにかけて、「鍛冶屋橋」のような5mにも満たない橋から、「笠松橋」のような20mを超える橋に至るまで、90基を超えるめがね橋が架けられました。そして、石工たちが魂を吹き込み、時に命を掛けて造った大小さまざまなめがね橋の数々は、風雪や豪雨にも耐え、今なお優美さと強健さを備えた「永代不朽の橋」として地域の人々に愛されています。そして今も、46基を数えるめがね橋が八代の人々の生活の中で生き続けています。それらは、石工たちの技術力の高さだけでなく、この地で江戸時代から昭和に至るまでの長い間、石工たちが活躍していた証を今に伝えています。
左上:自然が生み出した「白髪岳天然石橋」/ 右上:「鹿路橋」 左下:今も人々の生活を支える「笠松橋」/中央下:「笠松橋」/右下:石工「橋本勘五郎」の写真
■石工の活躍がもたらした豊かさ
セメント・コンクリート時代の到来とともに、めがね橋をはじめとする石造建築物の需要は減少していき、その多くは造り替えにより、建てられてから数十年で日本各地から姿を消し、石工たちの姿も途絶えていきました。しかし八代では、干拓樋門やめがね橋など、数々の石造物が、百余年たった今も、地域に根付き、人々に大切に受け継がれ、各地で生き続けています。そして、それらは、近代化する日本の足元を支えた石工たちの活躍の歴史を今に伝えており、この地を訪れる人々を「石工の郷」にいざなう、時代を超えた懸け橋となっています。
左上:い草の田植え/ 右上:干拓民謡「大鞘節」 左下:干拓地で披露される「女相撲」/中央下:石工の郷に残る「ひねり灯籠(若宮神社)」/右下:石工の郷に残る「ひねり灯籠(菅原神社)」
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