日本ワイン140年史~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~STORY #086

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日本ワイン140年史 ~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~ 日本ワイン140年史 ~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~
日本ワイン140年史 ~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~ 日本ワイン140年史 ~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~
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ストーリーSTORY

国産ブドウを原料とし、日本国内で醸造される「日本ワイン」。その140年にわたる歴史において重要な地位を占めるのが山梨県甲州市と茨城県牛久市である。甲州市は地元のブドウ農家との共存繁栄をはかり、広大なブドウ畑と新旧 30 ものワイナリーを誕生させるに至った。牛久市の「牛久シャトー」は、ブドウ栽培から醸造までの一貫した工程を構築し、大規模な醸造体制を確立した。明治の文明開化期、国営では果たせなかったワイン醸造を、それぞれの地域の特性を生かして民間の力で成し遂げたのである。切磋琢磨して日本のワイン文化の広まりに貢献した二つのまちに息づく歴史を知れば、ワインの味わいもより深くなる。

【官営から民営へ。日本ワイン史の第一歩が刻まれる】

明治時代のはじめ、日本の近代化が急速に進むなか、政府主導のもとに官営のワイン醸造が始まった。江戸時代からブドウの産地として知られていた山梨県は、まさにその先駆けであった。

現存する最古の日本ワイン 現存する最古の日本ワイン

明治10年(1877)、祝村(現在の山梨県甲州市勝沼町)に日本初の民間ワイン醸造場「大日本山梨葡萄酒会社」が設立される。同年、日本産のワイン製造の夢を抱く土屋龍憲(当時19歳)は、同志の高野正誠とともにフランスへ渡る。およそ1年半後、帰国した龍憲らは本場で学んだブドウの栽培法と醸造技術を駆使し、日本固有種の甲州ブドウでの本格ワイン醸造を始めた。

渡仏を後押ししてくれた明治政府の期待に応えるべく、明治12年、龍憲らは念願の国産本格ワインを完成させる。のちに高野家の蔵から見つかった未開封のワイン2本は「最古の日本ワイン」とされ、龍憲らの夢と情熱が詰まった結晶として大切に保管されている。こうして第一歩を刻んだ日本のワインづくりだが、技術面の不足や日本人がワインに馴染みがなかったことなどが原因で、10年を待たずに会社は解散。と同時に政府主導のワインづくりも頓挫した。
龍憲は会社で一緒に醸造を手がけていた宮崎光太郎とともに、明治22年(1889)に東京に「甲斐産商店」を開くが、翌年には光太郎に譲り、個人で醸造を続けると、そこにワイン醸造を志す多くの若者が集まった。うち一人が新潟県北方村出身で、のちに「マスカット・ベーリーA」などのブドウ品種を生み出した川上善兵衛である。日本独自の甲州ブドウと善兵衛が生んだマスカット・ベーリーAは、最も醸造量が多い品種として君臨している。

龍憲とともに歩み、その醸造技術を学んだ宮崎光太郎は、明治22年に自宅に醸造場を設け、甲斐産商店を切り盛りするが、なかなか軌道に乗らない。当時の日本人の多くはワインの味を好まなかったのだ。考えた末、もともと実業家肌である光太郎は方針を転換し「ヱビ葡萄酒」など甘味ワインに力を注ぐ。これは、ワインにハチミツや漢方薬を混和し独特の甘味を持たせたもので、その飲みやすさから好評を博していく。

【日本初「シャトー」完成、分業体制で大規模生産化】

実はこの甘味ワイン、光太郎よりも先に東京で製造・販売していた人物がいた。「神谷バー」の創業者・神谷傳兵衛である。傳兵衛は17歳のころ(1873年)、横浜のフランス人商会で働いていたが、病気で衰弱し、主人の勧めたワインで体調を回復させてその滋養を知った。以来ワインに興味を抱き、明治14年(1881)に考案、発売したのが「蜂印香竄葡萄酒」だった。輸入ワインにハチミツや漢方薬を加えて飲みやすくしたもので、甲州市の宮崎光太郎はこれにヒントを得たのである。

やがて、甘味ワインは大人気を博すも、傳兵衛は満足しなかった。「このワインを日本国内で醸造し、一大産業にしたい」というのが彼の夢だったのだ。傳兵衛は甲州市でワイン醸造が産業化しつつあることを知っていた。それに倣い、かつて甲州の若者が旅立ったように、養子の神谷傳蔵をフランスへワイン留学に派遣。自身は国内でのブドウ栽培所を探し当てた。その場所こそ、現在の牛久市にあたる茨城県稲敷郡の約119ヘクタールもの原野である。傳兵衛はこれを開墾し、ブドウの苗木6,000本を移植した。そして明治36年(1903)、2年の歳月をかけて「牛久醸造場」(現・牛久シャトー)が完成。帰国した傳蔵の知識をもとに、ボルドー地区の最新様式を採り入れた本格的なワイン醸造場であった。

シャトーカミヤ旧醸造場施設事務室 シャトーカミヤ旧醸造場施設事務室

傳兵衛はブドウ園・醸造所・牛久駅をむすぶトロッコ列車を走らせ、工員らの移動や大量の輸送も実現させた。こうして、ブドウの栽培からワインの醸造、貯蔵、瓶詰出荷まで一貫した製造工程を有する日本初の本格的なワイン醸造場へと「牛久シャトー」を発展させたのである。

【地域ぐるみでつくる一大ワイン産地の確立】

宮光園 宮光園

こうした流れを受け、一方の甲州市では大正元年(1912)、宮崎光太郎が自宅にワイナリー「宮光園」を開設し、醸造場の見学、ブドウやワインの飲食や購入ができるスタイルを確立した。今では当たり前となったワイナリーのスタイルが初めてできたのである。また光太郎は地元のブドウ農家との共存繁栄を図り、勝沼を一大ワイン産地へと押し上げた。このため勝沼には地元農家や組合が営む中小のワイナリーが次々と生まれ、今に至っている。
牛久市では、神谷傳兵衛が日本初のシャトーにおいて大規模生産を実現。甲州市では宮崎光太郎ら先覚者が始めた、ブドウ生産とワイン醸造を分業でおこなう伝統的手法が大規模生産の礎となった。明治から大正にかけて、中央線と常磐線が開通して首都圏への大量輸送体制も確立。牛久産ワイン、甲州産ワインともに大量に出荷されていった。

牛久市と甲州市は、国営で果たせなかった国産本格ワイン製造を民間の力で成し遂げ、それぞれが持つ地域の特色を生かし、競い合う形で日本社会へのワインの普及や発展に大きく貢献した。そして神谷傳兵衛、宮崎光太郎の両雄が普及させた甘味ワインが広まったのち、日本にも徐々に本来の渋みのある本格ワインが浸透。昭和50年ごろからは本格ワインへとニーズが移り、今にいたっている。

【日本ワインの聖地ならではのシビックプライド】

牛久市には傳兵衛が建てた、ヨーロッパの古城を思わせる「牛久シャトー」が現存する。建物外観はもちろん、内部に残るワイン樽や醸造用具、トロッコ軌道跡は日本ワインの発祥地としての歴史を雄弁に物語る。毎年春の桜まつりでは、今も残るブドウ園の周辺が約200本のサクラで彩られ、多くの人々で賑わうなど「牛久シャトー」は街のシンボルとなっている。

甲州市には宮崎光太郎が明治37年(1904)に作った第二醸造所が資料館として公開され、また光太郎の私邸も近代産業遺産「宮光園」として公開されている。醸造場として使われた日本家屋内で、ワイン醸造の歴史が学べるなど、周辺にある30ものワイナリーとのパイプ役にもなっている。

両市では、市民や醸造者が世界中から来る観光客との交流を楽しむ様子が見られる。日本ワイン発祥地ならではの郷土への愛着のあらわれだろう。両市の人々は相互に交流を図りながら、日本ワインのさらなる成長と広まりに取り組んでいる。この二つのまちを訪ね、140年前から続くワイン文化を理解することで、日本ワインの味わいも一層深いものとなるだろう。

左:シャトーカミヤ旧醸造場施設醗酵室(神谷傳兵衛記念館)/右:宮光園内展示室 左:シャトーカミヤ旧醸造場施設醗酵室(神谷傳兵衛記念館)/右:宮光園内展示室

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