海を越えた鉄道~世界へつながる 鉄路のキセキ~STORY #090
ストーリーSTORY
なぜ敦賀駅に国際列車が発着していたのか?それは、長浜市・敦賀市・南越前町の明治時代の鉄道の歴史と密接な関係がある。
物語は、トンネルで日本海と琵琶湖を繋いだことから始まる。
【つなぐ。日本海と太平洋】
長浜市と敦賀市にまたがる柳ケ瀬トンネルは、今も道路トンネルとして現役である。1車線通行でゆるやかにカーブしている内部は、迫りくる壁面に圧倒される。これこそが日本人の技師、工夫らにより4年の歳月をかけて完成したトンネルである。この工事の成功は、我が国の鉄道建設技術の飛躍と自信につながる金字塔となったばかりでなく、峠をトンネルで貫くことで、日本海と太平洋の最短ルートが確立されたのである。
その後、敦賀-今庄間の工事は、急峻な山地で30㎞の間に12のトンネルを掘る必要に迫られた。
積み上げるレンガや石は全て手積みであり、掘削工事中の洪水や土砂崩れの影響により、工夫は復旧工事のための資材を現場まで背負って運んだ。硬い岩質に阻まれながらも、技師、工夫らのたゆまぬ命懸けの努力によって3年後に完成した。しかし、柳ヶ瀬-敦賀-今庄間は、当時の機関車では登坂能力の限界となる急勾配で、輸送量が増加していくと、より牽引力が強い機関車が求められた。そこで登場したのが D51形蒸気機関車である。日本で最も量産された同機は、途中の小刀根トンネルのサイズに合わせて設計されている。小刀根トンネルは、現存する日本最古のトンネルであり、レンガ積みの壁面など当時の技術を間近で見ることができる。こうしたトンネルが続く区間を機関士達は、サウナのような状態の中でひたすら石炭をくべ続け、煙やすすで鼻の中まで真っ黒になりながら、急勾配の下りでは脱線しないようにと、一瞬の気の緩みも許されない卓越した運転技術で難所を越えていった。
これらのトンネルは廃線となった今も道路として使われているが、現在の基準からすると狭く感じる。しかし、それは130年前の鉄道トンネルを今も使用しているが故である。トンネル群を歩いて巡るウォーキング大会の参加者は、今もなお残る黒煙のすすを目にしながら運行当時の様子を体感する。旧北陸線のトンネル群は、鉄道から自動車へ移動手段が変わってもなお役割を果たし続けている現役の文化財なのである。
左:滋賀と福井の県境にある柳ヶ瀬トンネル ー 明治17年当時日本最長を誇った/右:日本最古鉄道トンネル小刀根トンネルの内部 ー SL運行当時のすすが現在も残る
【鉄道がもたらした繁栄】
一方、敦賀-今庄間では急勾配を多くの貨物を積んで越えるために、補機(列車を後ろから押すもう1台の蒸気機関車)を連結する必要があり、敦賀駅、今庄駅では補機の付け外しのために全ての機関車が停車した。その作業時間を目当てに敦賀駅では「立ち売り」で「鯛鮨」が販売され、今でも駅弁やお土産に人気の定番商品となっている。また、今庄は400年の歴史をもつ在来種そばの産地で、停車中にホームで食べる定番の「立ち食いそば」は、今庄駅発祥と言われ、親しまれた。今でも「今庄そば」と呼ばれ特産品となっており、これまで20年にわたって開催され続けている今庄宿でのイベントでは、毎年多くの人々に食され、賑わいを見せている。
左:現存する最古の駅舎「旧長浜駅」 ー 資料館として公開されている/右:立ち食いそば(今庄駅)
【そして鉄道は海を越える】
全ては、日本海と琵琶湖を結ぶことから始まった。
鉄道が敷設されたことにより、この地域に物流の革命がもたらされ、それは海外航路とのつながりを促した。鉄道は国際列車として世界へと通じ、人、文化、経済の国際交流の架け橋となったのだ。
長浜市・敦賀市・南越前町の鉄道遺産は、姿や形を変えずに、人々の生活に必要な財産として生まれ変わり、地域に密着した文化財として生き続けている。今後これらの鉄道遺産は、北陸新幹線敦賀開業を契機に、国内外からの観光客を出迎える役目を担い、3市町の一体的かつ広域的な観光振興による地域活性化に貢献する。
この地を訪れ、その軌跡を追うとき、懐かしくも新しい旅の扉が開かれる。
左:敦賀港近くの敦賀赤レンガ倉庫 ー 鉄道ジオラマ、カフェ・レストランに活用/右:命のビザの物語を今に伝える施設 ー 「人道の港 敦賀ムゼウム」
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敦賀駅の変遷
~新幹線開業を前に~
敦賀駅の変遷~新幹線開業を前に~
現在、敦賀駅周辺は交流施設オルパークに続き立体駐車場やOTTA、ホテルなど周辺施設の整備が進み、いよいよ新幹線開業も間近という雰囲気です。
駅周辺の様相が一変するほどの大きな変化に、市民も駅に降り立つ旅のお客様も、新しい時代の幕開けを感じているのではないでしょうか。
敦賀は1882年(明治15年)に鉄道が敷設されました。
1884年(明治17年)、難工事の末滋賀県境に柳ヶ瀬トンネルが完成し、敦賀は長浜と結ばれます。
最初の敦賀駅は氣比神宮の南西側に置かれ、更にそこから港の金ヶ崎駅(大正8年から敦賀港駅)まで線路が伸びていました。
1909年(明治42年)、敦賀駅は木の芽川を後背とする現在地に移転しました。
当時北陸線最大の二階建木造駅舎が建てられたのは、市街地から少し離れた場所です。
すでに北に鉄路が伸び、接続の便を向上させることが用地選定の理由の一つと考えられます。
同年刊行された『福井県敦賀郡名所古蹟写真帖』掲載の「敦賀停車場」(図1)の説明を引用すると「敦賀町ノ東南約七町ヲ距ル田園ノ中ニアリ。
明治四十一年七月工ヲ起シ本年五月竣工シ六月ヨリ之ヲ使用ス。
本場ハ敦浦直航路開通ニ伴フ設備ノ一トシテ改築セラレタルナリ。
其構造最新式ニ則リ欧亜ノ連絡ニ資スルニ在レハ規模広大輸奐ノ美アリ。
乗客昇降ノ便宜シ(句点加筆)」すなわちこの建物は市街地から約800m離れた田園の中にあり、1908年6月に起工、翌年5月に竣工して6月から供用を開始しています。
敦賀-ウラジオストク間の直通航路、アジアと欧州を結ぶ敦賀の交通の便を向上させる施設であり、最新の設備の大変立派な建物だということです。(図2)
新築当時は舗装されていなかった駅前は後に石畳の舗装も施されました。(図4)
駅と港周辺市街地の間には次第に学校や税務署、商店街などが整い、市街地化が進みます。(図5)
国際港敦賀の玄関口として華やかな時代を謳歌したこの駅舎でしたが、残念ながら昭和20年の空襲で焼失しています。
駅職員たちが車両の類焼を防ごうと奔走する中、炎の中倒れていったという当時の証言が残されています。
そうした被害にあいながらも、鉄道の営業は休むことなく続けられ、バラックの駅舎も設けられました。
1951年(昭和26年)には北陸線最初の鉄筋コンクリートの駅舎がお目見えしています。(図6)
鉄道は戦災復興、高度成長期を支える存在であり、北陸線も交流電化、複線化や北陸トンネルの開通など、輸送力増強のために姿を変えていきました。
柳ヶ瀬線の廃線、国鉄民営化、小浜線の電化や直流化による新快速乗り入れなどの歴史の波を乗り越えて、いよいよ新幹線の開業という明治の鉄道敷設に匹敵する大きな節目を迎えます。
従来の敦賀駅も整備が進み、新幹線駅への連絡通路ともなる長いエスカレーターのある跨線橋などは敦賀駅の利便性を一変させました。(図7,8)
それでも改札を左に折れて、地下道を通って階段を上ってホームへ出る、敦賀駅ならでの風情に懐かしさや親しみを感じる利用者も多いでしょう。(図9)
ホームから眺めた、線路が奥のほうまで幾筋も並んでいた景色は失われましたが、ホームのかさ上げや延伸の痕跡など、そこかしこに重ねてきた時間の証拠は残ります。
そして何より、驚くほどに巨大な新幹線の敦賀駅舎は、未来につながる最新の駅であると同時に、敦賀の鉄道史にその名を刻む存在でもあるのです。
※古写真・資料は全て敦賀市立博物館蔵