日本遺産とはABOUT JAPAN HERITAGE
「日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけではなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。
日本遺産ストーリー
ピックアップコラムJAPAN HERITAGE STORY
日本遺産に関するエピソードやトリビア
をお届けします。
ストーリー #009
リード文が入ります。リード文が入ります。リード文が入ります。リード文が入ります。
日本茶800年の歴史散歩
コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1
コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1
コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1コラムのテキストが入ります1
コラムを見る
気になる地域のコラムをクリック!
-
Click!
長く愛され続ける工芸品 鎌倉彫とは
ストーリー #025
鎌倉市の日本遺産ストーリー「いざ、鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」は、鎌倉時代から続く社寺、明治時代以降の別荘、文士が残した芸術文化など、たくさんの見どころがあります。
鎌倉市の日本遺産ストーリー「いざ、鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」は、鎌倉時代から続く社寺、明治時代以降の別荘、文士が残した芸術文化など、たくさんの見どころがあります。今回は、その中でも鎌倉市の伝統的工芸品でもある「鎌倉彫」にフォーカスしてご紹介します。
-
Click!
西国札所の桜名所巡り
ストーリー #074
3月に入ると、そろそろ気になる桜の開花宣言。今年の桜は例年よりやや早めといいます。今回は、ひと足早く桜を楽しめる西国札所をご紹介します。
3月に入ると、そろそろ気になる桜の開花宣言。今年の桜は例年よりやや早めといいます。今回は、ひと足早く桜を楽しめる西国札所をご紹介します。
-
Click!
琵琶湖は池?
ストーリー #008
今回は、「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」の一つの構成要素である「水と祈りの文化」にまつわるエピソードについて紹介します。
今回は、「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」の一つの構成要素である「水と祈りの文化」にまつわるエピソードについて紹介します。
-
Click!
佐世保鎮守府凱旋記念館建設秘話
ストーリー #035
佐世保鎮守府凱旋記念館は、かつて日本に四か所設置された日本海軍の拠点である「鎮守府」の一つ、佐世保鎮守府の入り口付近に第一次世界大戦の戦勝を記念するために建てられました。古典主義的な意匠でまとめられた壮麗な建物で、国の文化財に登録されています。なぜここまで豪華な建物が建設されたのでしょうか
佐世保鎮守府凱旋記念館は、かつて日本に四か所設置された日本海軍の拠点である「鎮守府」の一つ、佐世保鎮守府の入り口付近に第一次世界大戦の戦勝を記念するために建てられました。古典主義的な意匠でまとめられた壮麗な建物で、国の文化財に登録されています。なぜここまで豪華な建物が建設されたのでしょうか。
-
Click!
「竹内街道」の歴史トリビア
ストーリー #044
竹内街道は、日本の古代から中世にかけての重要な交通路であり、その歴史には多くの興味深いトリビアがあります。
竹内街道は、日本の古代から中世にかけての重要な交通路であり、その歴史には多くの興味深いトリビアがあります。以下に、竹内街道に関する面白いトリビアを紹介します。
-
Click!
「霊気満山」 高尾山のおすすめコースを紹介
ストーリー #088
『八王子市桑都物語周遊ガイド』のモデルコースに沿って、高尾山の魅力に迫ってみましょう。
高尾山は、新宿から電車で1時間ほどで、建物が空を覆う都会の凡景から、豊かな自然と日本の文化や伝統をまるごと体感できる空間として、海外の観光客にも人気のスポットです。今回は、『八王子市桑都物語周遊ガイド』のモデルコースに沿って、高尾山の魅力に迫ってみましょう。
-
Click!
信州上田のレイラインとは
ストーリー #093
「レイライン」とは何か?今回は信州上田の「レイライン」からストーリーを深堀したいと思います。
信州上田、長野県上田市の日本遺産『レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~』は、タイトルに「レイライン」「聖地」「龍」といった超常的で神聖なキーワードが散りばめられていることからも見て取れるように、人智を超えた存在に対する畏敬崇拝、『祈り』といった信仰を中心としたストーリーです。中でも「レイライン」とは何か?というところが一番気になるのではないでしょうか?今回は信州上田の「レイライン」からストーリーを深堀したいと思います。
-
Click!
忍者の城
ストーリー #042
忍びの里甲賀には200箇所を超える城が確認されています。拠点となるような大きな城が築かれることはなく、小さな城が各地域に数多く築かれました。構成文化財のひとつである和田城跡のある和田谷には、7箇所の城が確認でき、これらの城は見晴らしの良い丘陵の先端や谷の入口に築かれました。谷に入った侵入者は、常に両側の城から監視を受け、何か不審な動きがあれな攻撃を仕掛けられ、袋のねずみのように、退路を断たれました。和田城跡を中心とする和田城館群からは、守りが堅く、攻め難い、忍びの里の戦い方が見えてきます。甲賀の城は、石垣や天守を持たない、いわゆる「土づくりの城」です。土塁と呼ばれる土の壁で城の中心部を囲み、その高さは10mを超えるものもあります。集落内に築かれた城でも高さ4mの土塁を築き、これは2階建ての住宅が隠れるほどの高さがあります。また、貴生川遺跡の発掘調査では、2m以上の深さのある堀跡が確認されています。忍者の城は、小さな規模の城ではありますが、それぞれが連携して谷を守り、巨大な土塁と堀によって守られていました。
-
Click!
お酒と北前船の奥深いつながりの物語
ストーリー #039
北前船は、江戸時代中期から主に明治時代にかけて、北海道(蝦夷地)と本州各地を往来し、全国各地の産物を取引したことで、現在に至るまで食文化をはじめ人々の暮らしに大きな影響を与えています。その一つがお酒です。お酒は、北前船の積荷として各地に運ばれていただけでなく、北前船主が自ら酒造業を経営し、醸造から販売まで手がけている場合もあります。そのいくつかは、現在も人気酒蔵として営業を続けています。北海道では、鉄道が開通するまで生活物資のほぼ全てが北前船によってもたらされていました。4月頃、関西方面や北陸・東北から、米や味噌、そしてお酒を満載した北前船が港へやってくると、「青箍」(あおたが)が来たと大喜びして出迎えにいきました。青箍はお酒を入れた酒樽のことで、北前船の積荷の象徴でした。当時の人々にとって北前船はお酒を持ってきてくれる大切な「宝船」だったのです。全国各地の北前船寄港地に北前船と関わりが深い酒蔵がありますが、ここでは、いまも営業を続けている老舗を紹介します。
-
Click!
甲賀忍者が得意とした「くすり」と「忍者食」
ストーリー #042
ヨモギやドクダミ、ゲンノショウコなど甲賀は薬草の宝庫で、忍者はこれらの薬草をうまく調合して、戦で負った疵を治す薬や腹薬などに用いていました。また薬の知識を応用すれば敵を倒す毒薬や火薬づくりに役立てられます。忍者の秘伝書「萬川集海」には敵を翻弄する薬も載っています。面白いものには敵の気を抜く薬として「アハウ(阿呆)薬」があり、「麻の葉を干して薄茶三服で服用すると心が虚けてあほうになるという」と記され、忍者は大麻の麻薬作用を知っていたことになります。また忍者が最も嫌ったものに番犬があり、犬を倒す薬として猛毒であるストリキニーネを含む「まちん(常緑高木の種子)」が使われました。
-
Click!
忍者が住んだ忍町
ストーリー #042
「伊賀は秘蔵の国。上野は要害の地、根拠とすべし」。これは、江戸時代に伊賀の国を治めた藤堂高虎の言葉です。高虎は城づくりの名人で、江戸城や二条城など、数多くの城づくりに関わりました。その城づくりの最高の技術を集めて造られたのが、伊賀の城下町だと言われています。城下町を守るために様々な工夫がなされ、その一つの「仕掛け」が、忍者が集まって住んだといわれる「忍町」でした。あなたは「しのびちょう」と読めましたか?「しのびまち」ではありませんよ。さてこの忍町、城下町が完成してすぐの寛永年間(1630年代)に、そのような名前で呼ばれるようになったと言われています。その当時、伊賀の武士の中には「忍びの衆」という役職名の者がいて、約15人が藤堂藩に雇われていました。そのうちの数人が交代で忍町に住んでいたと伝わっています。その当時の「忍びの衆」の仕事は、城下町の警備や鉄砲の取締り、城門を出入りする人の記録係などで、今でいうと警察やガードマンのような役割を果たしていました。彼らは城下町の真ん中に住まいがあり、治安の安定に一役買っていたようです。さて、「忍びの衆」と呼ばれてきた藤堂藩の忍びの者ですが、1647(正保4)年、「武士の役職に忍び込みを意味する「忍び」と付くのはおかしいのでは」と言う意見があり、1650(慶安3)年、役職名が「伊賀者」に変更となりました。そのうちに城下町で暮らすのが経済的に厳しくなった伊賀者たちは、それぞれの故郷へと帰っていきました。しかし、「忍びの衆」が住まなくなったあとも、「忍町」の町名は残り続け、令和の時代になった今も「上野忍町」という地名があります。
-
Click!
戦いに敗れた伊賀を復興させた修験者 小天狗清蔵
ストーリー #042
伊賀のほぼ中央に位置する「勝因寺(しょういんじ)」には、「本願小天狗」と記された梵鐘があります。その鐘の音は四方を山に囲まれた伊賀の地に今も鳴り響きます。今回はこの梵鐘にまつわる、ずっと語り伝えていきたい伊賀の英雄のお話です。戦国時代、織田信長が大軍を率いて伊賀を壊滅させた「天正の伊賀攻め」。信長との激しい攻防戦のすえ、家だけでなく寺や神社が焼き払われ、田畑が荒らされ、多くの人が亡くなったと伝わる、伊賀にとってとても悲しい出来事です。この悲劇の中、突如現れたのは修験者の「小天狗清蔵(こてんぐせいぞう)」という人物です
-
Click!
歴史と文化に寄り添う大谷石
ストーリー #057
平成30年5月に、「地下迷宮の秘密を探る旅~大谷石文化が息づくまち宇都宮~」のストーリーが「日本遺産」に認定された。このストーリーは、宇都宮に住む人々が古より地元で産出する大谷石を代表とする凝灰岩を様々な形に変え、生活の中で使い続けてきた物語である。ところで,サブタイトルにある「大谷」を何と読むか。戦国武将好きの人なら「大谷刑部」、野球ファンなら「大谷翔平」選手を思い浮かべ、「おおたに」と読む方が多いかもしれない。しかし、宇都宮市の「大谷」は「おおや」と呼ぶ。地名の呼び方を調べてみると、西日本では「おおたに」、東日本では「おおや」が多いようである。それでは、「大谷」という言葉はいつごろから使われ始めたのか。「大谷」とは字のごとく「大きな谷」の場所を言い表していると考えられる。まさに大谷石の産出する場所の景観は、姿川によって形成された大きな谷間の地である。その場所に奈良時代の終わりごろに磨崖仏が彫られた。この磨崖仏のある大谷寺は鎌倉時代初期に「坂東三十三ヵ所」の一つに選ばれており、その名の通り大きな谷あいに建てられた寺としてそれ以前から「大谷寺」として知られていた可能性がある。橋本澄朗氏はこの寺を下野薬師寺の僧侶の山林修行の場であったと指摘する。すでに、古代にはこの地を「大谷」と呼んでいたのかもしれない。この大谷の地の基盤となる大谷石は、1500万年前に火山の噴火で噴出した大量の軽石が海底に堆積してできた軽石火山礫凝灰岩で、この石を本格的に建材として使い始めるのは江戸時代になってからのことである。蔵などの建物の壁材や屋根材、城や神社の石垣などの土木構造物に利用されるようになる。特に、大事なものを収納する蔵への石の利用は、それまでの板葺き屋根の板蔵だったものを火災から守ることを目的として使われるようになる。さらに明治以降は、建築材や土木構造材への利用が普及し、これを後押ししたのが、石材軌道や鉄道網による運搬手段の発達である。より多くの石材を一度に遠くまで運ぶことができるようになり、採石量も徐々に増加した。そのような中、アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトが、東京の帝国ホテルを設計するにあたり、柔らかく加工しやすい石を用いることなり、当初は石川県小松市の通称「蜂の巣石(菩提石とも)」の使用を考えたが、東京から遠いことから、産出量が多く東京に近い大谷石が選ばれた。大正12年(1923)9月1日に発生した「関東大震災」において、その日、完成披露パーティーが行われていた帝国ホテルの被害が最小限であったことから、そこに使われた大谷石の評価は高まり、全国的にその名が知られることになる。昭和30年代の採掘機の機械化、さらに鉄道輸送からトラック輸送への輸送手段の変化などにより昭和48年(1973)には、その生産量が89万トンとピークをむかえるが、その後のコンクリートの普及などにより、大谷石の需要は低下し、現在は内装材としての利用や、採石場跡地の観光活用など新たな取り組みが行われている。
-
Click!
御朱印ですか? いいえ、御墳印(ごふんいん)です
ストーリー #064
日本遺産「「桃太郎伝説」の生まれたまちおかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」のストーリーは、温羅(鬼)退治の伝説、伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力-巨大な墓-、桃太郎の原型の3つのパートで構成されますが、今回は2つ目のパートに関する構成文化財を紹介します。ぜひ、吉備勢力の強大さを体感しながら、古墳巡りをしてはいかがでしょうか。また、日本遺産「桃太郎伝説の生まれたまちおかやま」推進協議会では、令和4年度から構成文化財である7つの古墳それぞれの特徴を捉えた御墳印を制作し設置しています。無料の専用台紙を配布しているので、古墳巡りをした記念に集めてください。
-
Click!
敦賀駅の変遷~新幹線開業を前に~
ストーリー #090
現在、敦賀駅周辺は交流施設オルパークに続き立体駐車場やOTTA、ホテルなど周辺施設の整備が進み、いよいよ新幹線開業も間近という雰囲気です。駅周辺の様相が一変するほどの大きな変化に、市民も駅に降り立つ旅のお客様も、新しい時代の幕開けを感じているのではないでしょうか。敦賀は1882年(明治15年)に鉄道が敷設されました。1884年(明治17年)、難工事の末滋賀県境に柳ヶ瀬トンネルが完成し、敦賀は長浜と結ばれます。最初の敦賀駅は氣比神宮の南西側に置かれ、更にそこから港の金ヶ崎駅(大正8年から敦賀港駅)まで線路が伸びていました。1909年(明治42年)、敦賀駅は木の芽川を後背とする現在地に移転しました。当時北陸線最大の二階建木造駅舎が建てられたのは、市街地から少し離れた場所です。すでに北に鉄路が伸び、接続の便を向上させることが用地選定の理由の一つと考えられます。
-
Click!
お茶、飲みますか?
ストーリー #009
いきなりですが、みなさん、お茶はお好きですか?どんなお茶を飲みますか?「お茶」と一口に言っても、緑茶や紅茶、ウーロン茶など、様々な種類があります。さらに、緑茶にも色々な種類があり、煎茶(せんちゃ)やかぶせ茶、玉露(ぎょくろ)、碾茶(てんちゃ)など、製法によって、その味も飲み方も変わります。たとえば、玉露やかぶせ茶、碾茶は、日光を遮るために茶畑に覆いを被せます。みなさんは、茶畑の写真で、畝が黒く覆われているシーンを見たことはありませんか?あのシーンはまさに、日光を遮る覆いを被せているところなのです。日光を遮ることで、苦みや渋みが少なく、旨みや甘みの豊かな茶葉になります。
-
Click!
路地の先にあったのは
ストーリー #014
古くから港町として栄えた広島県尾道市は、限られた生活空間に多くの寺社や住宅、銀行街が立ち並ぶ、歴史の趣を今に残す「箱庭的都市」です。「寺社仏閣」「坂」「レトロ・ノスタルジック」「猫」・・・様々な魅力がある街ですが、今回はそれらをつなぐ「路地」にフォーカスをあててみました。
-
Click!
出雲國たたらストーリーの楽しみ方
ストーリー #034
「出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~」は、たたら製鉄という砂鉄と木炭で鉄をつくる、日本で独自に発達した製鉄法です。
「出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~」は、たたら製鉄という砂鉄と木炭で鉄をつくる、日本で独自に発達した製鉄法です。かつての出雲国、藩政時代の松江藩のエリアではこのたたら製鉄か盛んに行われ、最盛期には日本の鉄の半分近くを生産していました。そのため、構成遺産は広範囲に点在し、31にも及びます。原則非公開のものや、神楽や民謡、季節のお祭りなども含まれ、テーマも多岐にわたります。広域性とテーマの多様性が、この日本遺産の回遊を困難にし、わかりにくくしている点でもあるのですが、その多様性により様々な切り口から楽しめることが、一番の強みと魅力だと思っています。
-
Click!
あそびにきぃや。奈良しもいち。
ストーリー #031
こちら奈良県は吉野地方にある 下市町(しもいちちょう)なんですけど、みなさん知ってますか。
こちら奈良県は吉野地方にある下市町(しもいちちょう)なんですけど、みなさん知ってますか。奈良県のちょうど真ん中ぐらいにある町でして、奈良県民でも、どの辺にある町かほぼ知られてないぐらいの町です。だいたい人に紹介するときは、「桜で有名な吉野の隣なんですよー」っていいます。(吉野町におんぶにだっこで紹介しやすい)で、そんな町でも誇れるもんもありまして、日本遺産があるんですよ。あの日本遺産です。森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~にわが下市町がどっぷり入らせていただいております。(これも吉野町におんぶにだっこなのは内緒🤫)
-
Click!
多賀城碑と日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」
ストーリー #019
宮城県多賀城市市川字田屋場の小高い丘陵上にある古碑「多賀城碑」。日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」に加え、「名勝おくのほそ道の風景地(壷碑(つぼの石ぶみ)・興井・末の松山)」の構成要素にもなっていますが、本来は、天平宝字6年(762)に陸奥国府であった多賀城を、大規模に改修したことを記念し建立されたものです。この多賀城碑は、那須国造碑や多胡碑とともに、日本三古碑の一つに数えられています。多賀城が大規模に改修された年に加え、神亀元年(724)に創建されたことが記されています。奈良・平安時代の陸奥国府であった多賀城には、歌人として知られる大伴家持や、蝦夷との戦いで勇名をはせた坂上田村麻呂が長官として派遣されるなど、古代東北地方の中心として位置付けられていますが、多賀城の創建を示す資料は、唯一この多賀城碑に刻まれているのみです。多賀城の発掘調査の進展とともに、碑に刻まれた文字の信憑性、重要性が明らかとなり、平成10年に国の重要文化財に指定されました。