日本遺産とはABOUT JAPAN HERITAGE
「日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけではなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。
日本遺産ストーリー
ピックアップコラムJAPAN HERITAGE STORY
日本遺産に関するエピソードやトリビア
をお届けします。
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ストーリー #009
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お茶、飲みますか?
いきなりですが、みなさん、お茶はお好きですか?どんなお茶を飲みますか?
「お茶」と一口に言っても、緑茶や紅茶、ウーロン茶など、様々な種類があります。
さらに、緑茶にも色々な種類があり、煎茶やかぶせ茶、玉露(ぎょくろ)、碾茶(てんちゃ)など、製法によって、その味も飲み方も変わります。
たとえば、玉露やかぶせ茶、碾茶は、日光を遮るために茶畑に覆いを被せます。
みなさんは、茶畑の写真で、畝が黒く覆われているシーンを見たことはありませんか? -
ストーリー #014
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路地の先にあったのは
古くから港町として栄えた広島県尾道市は、限られた生活空間に多くの寺社や住宅、銀行街が立ち並ぶ、歴史の趣を今に残す「箱庭的都市」です。
「寺社仏閣」「坂」「レトロ・ノスタルジック」「猫」・・・様々な魅力がある街ですが、今回はそれらをつなぐ「路地」にフォーカスをあててみました。
尾道といえば寺社仏閣。
まずは久保八幡神社に行ってみました。
今回は神社の表側からではなく、裏路地から境内へと向かいます。 -
ストーリー #019
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多賀城碑と日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」
宮城県多賀城市市川字田屋場の小高い丘陵上にある古碑「多賀城碑」。
日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」に加え、「名勝おくのほそ道の風景地(壷碑(つぼの石ぶみ)・興井・末の松山)」の構成要素にもなっていますが、本来は、天平宝字6年(762)に陸奥国府であった多賀城を、大規模に改修したことを記念し建立されたものです。
この多賀城碑は、那須国造碑や多胡碑とともに、日本三古碑の一つに数えられています。
多賀城が大規模に改修された年に加え、神亀元年(724)に創建されたことが記されています。
奈良・平安時代の陸奥国府であった多賀城には、歌人として知られる大伴家持や、蝦夷との戦いで勇名をはせた坂上田村麻呂が長官として派遣されるなど、古代東北地方の中心として位置付けられていますが、多賀城の創建を示す資料は、唯一この多賀城碑に刻まれているのみです。
多賀城の発掘調査の進展とともに、碑に刻まれた文字の信憑性、重要性が明らかとなり、平成9年に国の重要文化財に指定されました。 -
ストーリー #031
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あそびにきぃや。奈良しもいち。
こちら奈良県は吉野地方にある
下市町(しもいちちょう)なんですけど、みなさん知ってますか。
奈良県のちょうど真ん中ぐらいにある町でして、
奈良県民でも、どの辺にある町かほぼ知られてないぐらいの町です。
だいたい人に紹介するときは、
「桜で有名な吉野の隣なんですよー」っていいます。
(吉野町におんぶにだっこで紹介しやすい)
で、そんな町でも誇れるもんもありまして、
日本遺産があるんですよ。あの日本遺産です。
森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~に
わが下市町がどっぷり入らせていただいております。
(これも吉野町におんぶにだっこなのは内緒🤫) -
ストーリー #034
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出雲國たたらストーリーの楽しみ方
出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~」は、たたら製鉄という砂鉄と木炭で鉄をつくる、日本で独自に発達した製鉄法です。
かつての出雲国、藩政時代の松江藩のエリアではこのたたら製鉄か盛んに行われ、最盛期には日本の鉄の半分近くを生産していました。
そのため、構成遺産は広範囲に点在し、31にも及びます。
原則非公開のものや、神楽や民謡、季節のお祭りなども含まれ、テーマも多岐にわたります。
広域性とテーマの多様性が、この日本遺産の回遊を困難にし、わかりにくくしている点でもあるのですが、その多様性により様々な切り口から楽しめることが、一番の強みと魅力だと思っています。 -
ストーリー #039
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お酒と北前船の奥深いつながりの物語
北前船は、江戸時代中期から主に明治時代にかけて、北海道(蝦夷地)と本州各地を往来し、全国各地の産物を取引したことで、現在に至るまで食文化をはじめ人々の暮らしに大きな影響を与えています。
その一つがお酒です。
お酒は、北前船の積荷として各地に運ばれていただけでなく、北前船主が自ら酒造業を経営し、醸造から販売まで手がけている場合もあります。
そのいくつかは、現在も人気酒蔵として営業を続けています。
北海道では、鉄道が開通するまで生活物資のほぼ全てが北前船によってもたらされていました。
4月頃、関西方面や北陸・東北から、米や味噌、そしてお酒を満載した北前船が港へやってくると、「青箍」(あおたが)が来たと大喜びして出迎えにいきました。
青箍はお酒を入れた酒樽のことで、北前船の積荷の象徴でした。
当時の人々にとって北前船はお酒を持ってきてくれる大切な「宝船」だったのです。
全国各地の北前船寄港地に北前船と関わりが深い酒蔵がありますが、ここでは、いまも営業を続けている老舗を紹介します。 -
ストーリー #042
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戦いに敗れた伊賀を復興させた修験者 小天狗清蔵
伊賀のほぼ中央に位置する「勝因寺(しょういんじ)」には、「本願小天狗」と記された梵鐘があります。
その鐘の音は四方を山に囲まれた伊賀の地に今も鳴り響きます。
今回はこの梵鐘にまつわる、ずっと語り伝えていきたい伊賀の英雄のお話です。
戦国時代、織田信長が大軍を率いて伊賀を壊滅させた「天正の伊賀攻め」。
信長との激しい攻防戦のすえ、家だけでなく寺や神社が焼き払われ、田畑が荒らされ、多くの人が亡くなったと伝わる、伊賀にとってとても悲しい出来事です。
この悲劇の中、突如現れたのは修験者の「小天狗清蔵(こてんぐせいぞう)」という人物です -
ストーリー #057
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歴史と文化に寄り添う大谷石
平成30年5月に、「地下迷宮の秘密を探る旅~大谷石文化が息づくまち宇都宮~」のストーリーが「日本遺産」に認定された。
このストーリーは、宇都宮に住む人々が古より地元で産出する大谷石を代表とする凝灰岩を様々な形に変え、生活の中で使い続けてきた物語である。
ところで,サブタイトルにある「大谷」を何と読むか。
戦国武将好きの人なら「大谷刑部」、野球ファンなら「大谷翔平」選手を思い浮かべ、「おおたに」と読む方が多いかもしれない。
しかし、宇都宮市の「大谷」は「おおや」と呼ぶ。地名の呼び方を調べてみると、西日本では「おおたに」、東日本では「おおや」が多いようである。
それでは、「大谷」という言葉はいつごろから使われ始めたのか。 -
ストーリー #064
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御朱印ですか?いいえ、御墳印(ごふんいん)です
日本遺産「「桃太郎伝説」の生まれたまちおかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」のストーリーは、温羅(鬼)退治の伝説、伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力-巨大な墓-、桃太郎の原型の3つのパートで構成されますが、今回は2つ目のパートに関する構成文化財を紹介します。
ぜひ、吉備勢力の強大さを体感しながら、古墳巡りをしてはいかがでしょうか。
また、日本遺産「桃太郎伝説の生まれたまちおかやま」推進協議会では、令和4年度から構成文化財である7つの古墳それぞれの特徴を捉えた御墳印を制作し設置しています。
無料の専用台紙を配布しているので、古墳巡りをした記念に集めてください。 -
ストーリー #090
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敦賀駅の変遷~新幹線開業を前に~
現在、敦賀駅周辺は交流施設オルパークに続き立体駐車場やOTTA、ホテルなど周辺施設の整備が進み、いよいよ新幹線開業も間近という雰囲気です。
駅周辺の様相が一変するほどの大きな変化に、市民も駅に降り立つ旅のお客様も、新しい時代の幕開けを感じているのではないでしょうか。
敦賀は1882年(明治15年)に鉄道が敷設されました。
1884年(明治17年)、難工事の末滋賀県境に柳ヶ瀬トンネルが完成し、敦賀は長浜と結ばれます。
最初の敦賀駅は氣比神宮の南西側に置かれ、更にそこから港の金ヶ崎駅(大正8年から敦賀港駅)まで線路が伸びていました。
1909年(明治42年)、敦賀駅は木の芽川を後背とする現在地に移転しました。
当時北陸線最大の二階建木造駅舎が建てられたのは、市街地から少し離れた場所です。
すでに北に鉄路が伸び、接続の便を向上させることが用地選定の理由の一つと考えられます。